もり な が よし fgo。 森可成

【FGO】森長可の評価|再臨素材とスキル上げ優先度

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4 Lv. 1 Lv. 4 まずは倍率が大きいスキル1と、クリティカルを安定させるスキル3を並行する。 採用目的が宝具効果の場合はスキル育成はここまででOK。 【Step2】 Lv. 5 Lv. 1 Lv. 4 スキル1をLv6にすると、スキル3と再使用するターンが合う。 しかし再使用までに戦闘不能になりやすいので、火力上昇のためと割り切って区切りは気にせず伸ばす。 【Step3】 Lv. 9 Lv. 6 Lv. 6 より快適に運用する上でおすすめのスキルレベル。 スキル2は1ターン目から使う為、スキル1や3よりも再使用する機会がある。 7〜9ターン目まで生存が見込めるならばLv6まで一気に上げる。 【Step4】 Lv. 9 Lv. 9 Lv. 9 このサーヴァントの理想形。 戦闘不能前提なので、伝承結晶の優先度は低い。 どれか1つであれば戦闘不能後のサポートに繋がるスキル3がよい。 スキル1とCT回復は大きくズレるが、スキル1を使わない無敵貫通を優先した運用で役立つ。 倍率の高いクリ威力アップ持ち スキル1のクリティカル威力アップは効果の倍率が非常に高い。 そのためクリティカルで高い火力を発揮できる。 またスキル3のスター集中を使えばクリティカルも狙いやすい。 戦闘不能でスターを20個獲得 前衛 後衛 森長可にターゲット集中の概念礼装を装備し、序盤の攻撃をしのぎ戦闘不能時のスターを超人オリオンに渡す編成。 デメリットの大きさからこの役割での運用がメインになりやすい。 そのため森長吉だけでなく他の戦闘不能効果持ちも加えて使いやすい。 ターゲット集中で戦闘不能までをサポートできる。 加えて無敵貫通を持つため使いたい場面が被ることが多い。 相性の良いサポーター NP付与と高倍率のBuster強化が非常に優秀。 スキル2の無敵にはスター発生率アップの効果もあるため、クリティカルに必要なスターを稼ぎやすくなる。 味方単体を戦闘不能にする宝具でスター獲得の条件を満たせる。 加えてターゲット集中付与もあるため、こちらでの戦闘不能狙いもしやすい。 スター獲得状態スキルを持つサポート役。 ただし最大でも毎ターン15個なので、他のスター獲得役も用意しておきたい。 最大50個のスターを獲得できるスキルを持つ。 ただし基本的に1回限りなので、クリティカルを使った周回か高難易度を短いターンでクリアを狙う場合におすすめ。 この槍の前では人間も骨が無いかのように容易く両断さ れてしまうという事からその名のついた宝具。 逸話の通り対象の防御力を無効化する効果を持つ。 消費魔力も少なく、単純ながら実戦においては極めて強 力な宝具。 通常形態である直槍、攻撃力を強化した解放形態である 十字槍の二形態を有する。 『百段』 ひゃくだん。 ランサー及びライダークラスでの召喚時に所有する騎乗 宝具。 史実における長可の愛馬。 居城である金山城の石 段100段を一息に駆け上がる程の名馬とされる。 バーサーカークラスでの召喚時には使用不可。 オール信長総進撃 ぐだぐだファイナル本能寺2019クリアで開放 傍若無人の限りを尽くして戦国の世を駆け抜けた長可だ が、小牧長久手の戦いの際に銃弾を受けて若くして命を 落とす。 その時、敵だけでなくあろう事か味方も長可の 死を喜んだといわれるが、真偽のほどは不明。 とにかく無駄に暴力的で意味不明の逸話ぞろいな長可で あるが、生涯を通して主君に槍を向けた事は一度もな い。 サーヴァントとして召喚された今も、主君に対して のそれと同様、己が認めたマスターへの忠誠心は篤く、 裏切りなどの心配は全くない。 だがその忠誠の形が果たしてマスターの望む形であるか どうかは定かではないが……。 再臨画像 最終再臨ネタバレ注意 最終再臨までの画像を掲載しています。 ネタバレが含まれるため、注意してください 一つ、沢姫って茶壷は殿下にやるわ。 ただ、物が宇治に あんだよな。 一つ、台天目も殿下にやるわ。 茶碗に札で書いてあるか らよ。 一つ、もしオレが死んだら、母上は殿下に金貰って京都 に引っ越せや。 跡継ぎの仙千代は今まで通り殿下に仕え ろ。 一つ、いいかお前にゃ金山城は無理だ。 殿下にもっと ちゃんとした奴に任せろっつっとけ。 一つ、女どもはさっさと実家に帰れ。 一つ、要らねぇ茶道具とか刀は仙千代にやるわ。 ほかの 品は札に行き先書いてあるからその通りに届けろ。 あー、あとな秘蔵の脇差が京都の本阿弥のところにあっ からそれも仙千代にやるわ。 娘のおこうは侍じゃなくて、京の町人か医者に嫁入りさ せろ。 母上は絶対京に住めよ、絶対だ。 仙千代は死んでも金山城の後継ぎにはするんじゃねぇ。 そうそう、万が一、いや百万分の一ってとこだが、今回 の戦で大敗したら、城に火をかけて皆で仲良く死ね。 天正十二 三月廿六日あさ むさし 的なことが書いてあるらしい長可の遺言状。 最後のあた りはなるほど、無茶苦茶である。 「どうよマスター? オレって家族思いだろ?」 バレンタイン礼装 ネタバレ注意 バレンタイン礼装のイラストとフレーバーテキストを掲載しています。 ネタバレが含まれるため、注意してください。

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旅行記1日目 急行もりよし / 東京を目指す旅~この坂を越えて~

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生涯 [ ] 家督相続 [ ] 元年(1558年)、森可成(三左衛門)の次男として生まれる。 元年()に父・可成が戦死し、長兄の可隆(伝兵衛)も同年に戦死していたため、僅か13歳で家督を継いでに仕え、信長よりし 勝蔵 長可を名乗った。 元亀3年()12月には・・らとともに発給文書に連署しており、15歳にして既に他の重臣らと同じように活動している様子が窺える。 元亀4年()3月、第二次攻めにの部隊に参加して初陣。 、らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家ではなどが功を挙げ信長よりその働きを称された。 同年のでは老巧の家臣を出し抜き先陣を切ってを渡るも城内は既に殆どもぬけの殻であり高名とはならなかった。 翌天正2年()には第三次長島一向一揆攻めでの寄せ手に参加し関成政と共に打って出てきた一揆軍を敗走させた。 また、信忠軍と一揆が川を挟んで対峙した際には船で渡河して切り込み、一揆勢27人を討ち果たすなど優れた武勇を見せた。 以後は信忠配下の与力武将として、攻め、侵攻、攻め、などに参加し武功を挙げている。 また、天正5年()頃から内政にも参加するようになり、地元の(現・)周辺の発展の為に間近を流れるを活かしての商業を重視し河港 の整備、兼山の城下町の区画整理、六斎市の開催などを行っている。 また内陸部で入手の難しい海魚・塩の販売需要を見込んでを敷き、地元商人に専売特権を与える見返りとして税収を得た。 この専売制は効果があったようで森家が美濃を去った後も、商人たちがの美濃代官に長可の書状を持って制度の存続を求めると、尾張藩では専売ではなかった魚と塩の専売を特例として認めさせ、に到るまでこの制度は存続した。 甲州征伐 [ ] 天正10年()のにおいてはと共に先鋒部隊の将として抜擢。 忠正と長可はに口よりの武田領へと侵攻し、14日にはのを降伏させ、のも潰走。 15日には逃げる正直の部隊を追撃し数十騎を討ち取る活躍を見せる。 の守備する攻めでは信忠率いる本隊を待ち合流。 を上り本隊とは別行動で動き高遠城に押し寄せると森隊は三の丸の屋根に登り、板を引き剥がし城内へ鉄砲の一斉射を加え陥落させ、さらにそこから本丸方面の高遠城の守備兵を射撃し多くの敵を倒す。 また、本丸の制圧においても自ら槍を取って戦い、手に傷を負うも構わず城兵を突き倒すなど奮闘する。 しかしながら本隊到着前に団と共に二度の軍規違反を侵しており、この事は信長に書簡で注意を受けている。 そのまま忠正と共にへ侵入し、の接収やら国人衆の人質の徴収に当たっている。 これらの戦功から武田氏滅亡後、信長からとして信濃(・・・)と20万石を与えられた。 また長可の旧領である金山は弟の成利(蘭丸)に与えられている。 信濃入領 [ ] 天正10年(1582年)4月、に入り領内の統治に取りかかった長可であったが、信濃国の政情はいまだ不安定であり、さらにの本領であると接する長可の北信濃四郡は上杉氏と結んだ旧武田家臣なども存在していた。 そういった中でにと結んだ旧武田家臣のが地侍など8000人を率いて蜂起。 一揆勢は廃城となっていたを改修して本拠とし、の守るを包囲するという事件が起こるが長可は一揆勢を撫で斬りにして わずか2日でこれを鎮圧し、など他の反抗的な勢力も領内から追放し支配を確立する。 残った信濃国衆も一応は臣従の姿勢を見せたが、領内の統治が容易では無いことを痛感した長可は、国衆の妻子を海津城に住まわせることを義務付け、また一揆に参加したと見られる近隣の村の住民の一部も強制的に海津城下に住まわせた。 また、領内への禁制発布、信濃国衆との会談や所領安堵の判断など政務を精力的にこなし、統治の確立に努めた。 越後侵攻 [ ] 信濃国の仕置きを済ませた長可は、上杉景勝がに攻められている越中の救援に向かったという知らせを受けて、同年のに5,000の兵を率いて越後国への出兵を開始。 越後国境付近の関川口の守りを突破し芋川親正・安田某 らの守る(大字田切字東裏にあった城)を落として 、上杉領深くまで侵攻した。 6月までに春日山城からほど近い二本木()を守るを破り 、同地に陣を張った。 当時、春日山城の兵は殆ど魚津城の救援に向かっていた。 手薄な春日山城に長可が肉薄すると、上杉景勝も春日山城防衛のために魚津城の救援を諦めざるを得なかった。 景勝は5月27日の陣を引き払い春日山城へと兵を返す事となった。 これによって景勝の援護を得られなかった魚津城は柴田軍の攻撃によって陥落し、上杉軍は越中国における重要な拠点を失う。 しかし6月2日にで信長が討たれると、敵地深くに進攻していた長可は一転して窮地に立たされた。 6月8日には二本木の陣を払って越後国から撤退。 軍議を開いて信長の仇を討つことを決定した。 しかし信濃国衆にも信長死亡の報が伝わっており、長可配下の信濃国衆たちはを除いてほぼ全員が長可を裏切り、森軍を殲滅する為の一揆を煽動していた。 これに対し長可はまず海津城の人質を逃がさぬように厳命し、入城後はただちに人質を連れて南進した。 長可の家臣・が一揆と交渉したが、一揆衆は森勢の前に立ちふさがったため、長可は合戦を仕掛け勝利する。 森軍は松本に到着すると人質を残らず処刑し木曽谷方面へと撤退した。 唯一、撤退に協力した出浦盛清に長可は深く感謝し脇差を与えている。 撤退途中に長可は「のも暗殺を画策している」という密告を城下で商売をしていた金山の商人から受けた。 長可は敢えて木曽福島城を迂回せず、まずは到着日を書いた書状を義昌に送るとわざとそれより1日早い日取り、それも深夜遅くに城門をで破壊して木曽福島城に押し入るという策略を実行した。 一気に乱入した家臣らは義昌の息子の岩松丸(後の)の身柄を拘束し、暗殺の企みを封じた。 翌日になり森軍は木曽福島城を後にしたが長可は岩松丸を拉致したまま解放せずそのまま帰路を無事に往く為の人質として利用している。 東美濃入りした後ものなどが暗殺を企てていたが、木曾家から手を出さぬようにと懇願された事で結局は手出しはされず森軍は無事に旧領の金山へと辿りついた。 なお、安全圏に達したと判断した長可は金山に程近いでようやく岩松丸を解放している。 東美濃統一 [ ] 天正10年(1582年)6月24日に無事に旧領への帰還を果たし、翌日には岐阜城に赴き、、に挨拶し弔辞を述べたという。 各務元正ら成利に与力として付けていた部下らと合流し旧領に復した長可であったが、元与力の・らが離反してその勢力は衰退しており、更に・・遠山友忠・らも長可の排斥を企むなど周囲は敵に囲まれた状態であった。 そこで長可は敵に一致団結される前に各個撃破する事を決め、7月2日未明に肥田忠政のを攻めた。 忠政は病を患っていた為、同夜にの斎藤利堯を頼って落ち延びた。 長可は7月3日の牛ヶ鼻砦での合戦を経て跡に入り加治田城を攻めたが、これを落とすことは出来ず烏峰城に帰還した()。 しかし同年中に肥田忠政の病は重くなり加治田城で死去し、跡継は家臣の会議でも決まらなかった為、肥田家臣は離散し森家に属す者も多かった。 長可は元家臣であるのとの長谷川五郎右衛門が信州から帰還しても森家に挨拶も使者も寄越さず、更に肥田忠政に内通したとして大森城を重臣のに攻めさせ、更に上恵土城を攻めた為、奥村元広は城を捨てて落ち延び、長谷川五郎右衛門は自害した。 長可は同月中に・下麻生城・野原城・御嵩城を攻略し、の、の、の妻木頼忠は戦わず森家に帰順したため 、森家は東濃において大きく勢力を伸ばした。 更に長可は、間を置かずに幸田孫右衛門を大将として遠山友忠の本拠であるへと軍勢を派遣するが、道中で孫右衛門は遠山軍の奇襲を受けて戦死した為、苗木城攻略は頓挫した。 この失敗を受けて長可はひとまず戦を止め久々利頼興と和睦し、遠山友忠とは睨み合いを続けた。 また外交面では変後すぐさま羽柴秀吉に接近し、東美濃の諸氏から秀吉への取次の役目を申し付けられ、「当国に不届き者が居れば成敗するように」という旨の書状が、丹羽長秀、の連名で出され反抗諸氏の領に攻め込む大義名分を得ている。 翌天正11年()のには宴を開いて久々利頼興を金山城に呼び寄せてにより仇討させ、同日夜間にを攻めたて落城させた。 またに際して柴田勝家と連携して織田信孝家臣の・が兵を動かし須原城・洞戸城を攻略したという報が入るとと連絡を取って遠藤領に侵攻。 立花山城に篭った遠藤軍を攻め立て、遠藤清左衛門・池戸与十郎・井上作右衛門を討つも要害の立花山城は容易には陥落せず、やむなく遠藤軍の補給路を断っての兵糧攻めへと切り替えた。 蓄えの充分で無い立花山城の兵糧はすぐに尽き、進退極まった遠藤軍は討死覚悟で総攻撃に出ようとするが佐藤秀方から信孝自刃の知らせを聞かされると戦意を喪失し石神兵庫・遠藤利右衛門の両重臣を人質に差し出し降伏。 長可は木尾村で慶隆・胤基両名と会談し和睦を成立させ、降伏を飲んだ礼として鞍付馬を両名に贈呈した()。 その後、兵を再編し同年5月に自ら出馬し二度目の苗木城侵攻を開始。 5月20日に陥落させ、遠山友忠は城を脱出してを頼って落ち延び、城に残った遠山兵は城を枕に悉く討死した。 更に、明知城の(、遠山一行等)と、信孝方の主・小里光明を美濃国から追放し、東美濃一の堅城であるも城主・団忠正が本能寺の変で信忠と共に討ち死にしていたため接収し 、信孝の重臣であった斎藤利堯も加治田城を手放したためを含めてこれを接収し、長可は旧領復帰から11ヶ月ほどで美濃における抵抗勢力を完全に駆逐し、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した。 統一後は領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考え、加治田城を始めとするいくつかの城を処分としている。 また、この頃より書状の上で 武蔵守を自称するようになっている。 小牧・長久手の戦い [ ] 森長可戦死の地とされる武蔵塚(愛知県長久手古戦場) 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄との間で軍事的な緊張が高まり戦が不可避となった際には、岳父である池田恒興と共に秀吉方に付いた。 出陣に当たり、まずは金山より南への船を通行止めとして尾張への流通を断ち、関成政や遠藤慶隆に参陣を呼びかけた。 関・遠藤勢と合流した長可は尾張国へと侵攻するが既に池田軍はを攻略しており、長可は功を挙げるべく戦略的に意義のあるの占拠を狙い軍を動かす。 3月16日にに出陣を願い出て許可を得ると同日夕方出陣し夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒()に陣を張った。 しかしながら小牧山は15日に徳川軍の手に落ちており、長可出撃を各地に配した忍びの連絡により察知した家康は直ちに・・ら5,000人の兵を羽黒へ向けて派兵した。 そして、17日早朝に森軍を捕捉した徳川軍は羽黒の長可へと奇襲をかけ戦端を開く() 奇襲を受けた当初は森軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに立て直し戦形を維持したが、迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れると、それに対処すべく一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みた。 しかしながらこれを一部の兵が敗走と勘違いして混乱し始め、その隙を徳川軍に攻められ森軍はあえなく崩れ、隊列を外れた兵は徳川軍に次々と討たれた。 もはや戦形の維持が不可能になった上に敵に包囲された長可は指揮の効く兵だけで強引に北側の包囲の一角を破り撤退に成功したが、退路の確保や追撃を振り切るための退き戦で親子など300人余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した。 後に膠着状態の戦況を打破すべくを総大将とした中入り部隊に第2陣の総大将として参加。 この戦に際して長可は鎧の上にを羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望んだ。 徳川家康の本拠を攻略するべく出陣し、道中で撹乱の為に別働隊を派遣してやに放火して回った。 その後、岐阜根より南下してで池田軍に横合いから加勢しを討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守るも討ち取った。 しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第3陣のらが破ったものの、その間に家康の本隊が2陣と3陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となっていた。 もはや決戦は不可避となり長可は池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び、の軍と激突して奮戦するもの家臣・水野太郎作清久配下の鉄砲足軽・杉山孫六の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した。 そこに現在武蔵塚が建てられた。 享年27。 死後 [ ] 森可成(右)と長可(左)の墓 (岐阜県可児市可成寺) その後、死体を担ぎ上げて撤退しようとする森軍の兵士に配下のが追いすがり森軍の兵を散らすがこの時、急時のため徳川軍には「首取るに及ばず」という指令が出ており、八蔵は葉武者の如く突出してきた長可を大将首とは思わずに鼻を削ぐと脇差を奪い取りその場を後にしてしまう。 更にその後に別の武者がその死体に駆け寄り、首を取ると旗印を外して捨て、長可の羽織っていた白装束を脱がせそれで首を包むと槍の先に付けて馬に乗り、武功を大声で誇りながらその場を立ち去ったが、実はこの武士は徳川の兵では無く森家の田中某という小姓であったという。 この為、長可の首は徳川軍には渡らず、金山に持ち帰られた。 戦後、遺言状 が各務元正、、ら3人の家老によって秀吉の元に届けられた。 遺言には名器を秀吉に譲る旨などが書かれていたが、「仙千代(後の)は秀吉様のお側で奉公すべき」や「金山は誰か信頼できる武将に任せるように」など裁量に困る意見も並んだが結局の所、秀吉も自分に味方した武将の領地を没収する訳にはいかず遺言のこの一節だけは無視して、仙千代を跡継ぎに指名し森家も金山にそのままとどめ置かれた。 人物 [ ] 人柄 [ ]• 父の可成と同様に槍術に優れ、その秀でた武勇から、「 鬼武蔵」と称された。 筋骨たくましい偉丈夫として戦場での勇ましさを伝える逸話も多い。 非常に気性の激しい人物で、他の織田家臣団の奉公人を些細なことで怒りに任せて槍で突き殺したり、同僚に暴言を吐くなどして諍いを起こすことも少なくなかった。 初出仕の時期には、既に可成の後継扱いであったためとして仕えた期間は無い。 しかしながら弟の(蘭丸)同様に信長の寵愛を受けており、甲州征伐後の長可の所領の石高は織田家臣の20代の武将の中では最も高く、譜代の重臣と比べても遜色ない物であった。 戦でも度々命令違反や軍規違反を犯し、それについての書状 もいくらか残されているが、信長から下される処分は口頭や書状での注意に留まり蟄居などの重い処分は一度も受けておらず、信長の重度の寵愛ぶりが窺える。 書を好み、能筆であったという。 戦場にも常にと紙を携帯しており、何か報告事がある時はそれらを取り出して自ら筆を取った。 を嗜んでおり、主催の茶会などにも招かれている。 また、名物の収集も趣味であり、特にの「沢姫の茶壷」は秀吉から金2枚を借金してまで手に入れたという。 なお、天正12年3月26日朝、妻である池田氏に宛てた遺言に、、は秀吉に進上、悪しき茶の湯道具は刀や脇差とともに弟の千丸に与えると後事を託しており、名物茶器の重さが痛感されるとともに 、長可の茶の湯への執心と名物の資産価値の大きさをうかがうことができる。 上記の遺言は宛とされてきたが 、これは明かな誤りで、妻の池田氏に宛てたものである。 本来の宛所の位置に「尾藤甚右衛門、この由御申し候べく候」云々とあり、返し書(追而書)が本文の後にくる変則的な書式のため従来の研究者は幻惑されたといえる。 尾藤知宣を介しつつ、後事を妻に託しており、それも「ー候」とか「申候べく候」というようにきわめて丁重な言いまわしで、このことは森夫婦の間柄が役割分担の明確な対等の関係にあったことを物語っている。 武辺一辺倒に思われがちだが政務への参加も意欲的であり、上記のように金山の町の発展の為に商業を重視した政策をとった。 また、信濃時代もなかば強引な手段ではあるが政情不安の信濃を抑え付け、入領から1ヶ月あまりで越後への遠征を実現している。 逸話 [ ]• というの名馬を所有していたが、名の由来については「居城・の石段100段を駆け上がれるほどの健脚を持っていた」という伝と「100段()を全力疾走できる」という伝とがあるがあまりよく分かっていない。 「人間無骨」の銘が彫られた二代目(之定)作の大身の十文字槍を愛用していた。 これは、この槍の前では「人間の骨など無いも同然」という鋭い突き味を持っていた事から名付けられたとされ、事実、長可は初陣でこの槍を振るい、27にも及ぶ首級を挙げたという。 武蔵守の由来については次のような伝説がある。 信長が京都に館を構えた頃、近江の瀬田に関所を設けて諸国大名の氏名を記し通行させた。 長可が関所に差し掛かると関守に下馬して家名を名乗るように言われたが、長可は急いでいるとして下馬せずに名乗って通ろうとした。 立ちふさがる関守を「信長公の御前ならともかく、この勝蔵に下馬を強いるとは何事」と斬り捨て、止め立てすれば町を焼き払うと叫んだので、木戸は開かれた。 長可がこの一件を話し裁定を仰ぐと、信長は笑って、昔五条橋で人を討ったがいたが、長可も瀬田の橋で人を討ったとして、今後は武蔵守と改めよと言ったという。 高遠城攻めの時は激戦で長可の鎧の下半身は高遠城兵の返り血で真っ赤に染まっており、その姿を見たは思わず手負いかどうか尋ねたという。 米田城から加治田城に肥田玄蕃が逃げのびた事について、長可は「加茂山(米田城)には地の地の利が無い。 加治田は利のあるところである。 加治田にかたまり、わが勢を引き受けようとする場所に逃れたのは、なかなか天晴な大将である」と述べたと伝わる。 小牧・長久手の戦いに出陣する前に、「娘のおこうは侍ではなく、京都の町人で医師のような人物に嫁がせるように」という遺言を妻の池田氏に対して残している。 森長可の嫡男である森玄蕃を、城主が保護したとされ、玄蕃は元和五年 1619年 に、42歳で亡くなっている。 主要家臣団 [ ] 譜代 [ ]• (次右衛門)• 信濃時代与力 [ ]• 加木屋正則 本能寺以降 [ ]• (主)• (主)• 関連小説 [ ]• 『戦国鶴の軍団 鬼の武蔵・森武蔵守長可烈伝 』(、2002)• 『戦国の鬼 森武蔵』(、2007) 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 兼山歴史民俗資料館には長可の発給したものと伝わる地元商人に専売権を認める旨の書かれた書状が展示されている。 一揆勢の犠牲者は森軍に首を取られたと確認されただけでも2450人に及んだ。 『越後治乱記』に拠れば守将は「安田惣八」となっているがこの名で知られるは2年前に死んでおり、誤記の可能性が高い為、名は伏せる。 『越後治乱記』によれば長可の軍勢は侵攻時に14ヶ村に放火していったという。 出浦盛清が長可を裏切らなかった理由については森家がの一つ、伴家と密接な関係を持っていた事などが挙げられる。 史料、軍記物いずれにも記載が無いために詳しい方法は不明。 岩村付近で戦闘が行われたという記録も無い。 受領名の「武蔵守」は信長から授かったとするものもあるが少なくとも信長存命時に「森武蔵守」名義の発給文書や手紙などは一切存在せず、全て「森勝蔵」と書かれている。 援助を募った背景には新領の保守の為に信頼できる重臣やある程度の兵を美濃に残さなければならなかったという事情も多少影響したと思われる。 出典 [ ] []• 『兼山町史』など。 『史料綜覧』巻10• 『北越軍記』• 『遠山佐渡、遠山半左衛門尉宛の12月21日付け羽柴秀吉他連署状写』 (天正10 1582 年)• 長久手市「」『長久手市』。 2018年5月10日閲覧。 著『長久手合戦記』• 天正10年2月23日付『織田信長黒印状』など• 宗及自會記• , p. 222-223. 兼山町史編纂委員会「森武蔵守の由来」『兼山町史』岐阜県可児郡、1972年、1003頁。 参考文献 [ ]• 上越市史専門委員会編『上越市史叢書9 上越の城』(新潟県、2004)• 奥村佐右衛門尉義喬『現代語訳 大通寺本 金山記全集大成』(渡辺千明訳 兼山町教育委員会、1986)• 『戦国武将と茶の湯』淡交社、1986年。 『戦国武将の手紙を読む』角川書店、1991年。 「戦国「名将夫婦」を語る10通の手紙」『歴史読本』42巻10号、1997年。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 先代: 森長可 次代:.

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【FGO】森長可の評価と再臨素材

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生涯 [ ] 家督相続 [ ] 元年(1558年)、森可成(三左衛門)の次男として生まれる。 元年()に父・可成が戦死し、長兄の可隆(伝兵衛)も同年に戦死していたため、僅か13歳で家督を継いでに仕え、信長よりし 勝蔵 長可を名乗った。 元亀3年()12月には・・らとともに発給文書に連署しており、15歳にして既に他の重臣らと同じように活動している様子が窺える。 元亀4年()3月、第二次攻めにの部隊に参加して初陣。 、らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家ではなどが功を挙げ信長よりその働きを称された。 同年のでは老巧の家臣を出し抜き先陣を切ってを渡るも城内は既に殆どもぬけの殻であり高名とはならなかった。 翌天正2年()には第三次長島一向一揆攻めでの寄せ手に参加し関成政と共に打って出てきた一揆軍を敗走させた。 また、信忠軍と一揆が川を挟んで対峙した際には船で渡河して切り込み、一揆勢27人を討ち果たすなど優れた武勇を見せた。 以後は信忠配下の与力武将として、攻め、侵攻、攻め、などに参加し武功を挙げている。 また、天正5年()頃から内政にも参加するようになり、地元の(現・)周辺の発展の為に間近を流れるを活かしての商業を重視し河港 の整備、兼山の城下町の区画整理、六斎市の開催などを行っている。 また内陸部で入手の難しい海魚・塩の販売需要を見込んでを敷き、地元商人に専売特権を与える見返りとして税収を得た。 この専売制は効果があったようで森家が美濃を去った後も、商人たちがの美濃代官に長可の書状を持って制度の存続を求めると、尾張藩では専売ではなかった魚と塩の専売を特例として認めさせ、に到るまでこの制度は存続した。 甲州征伐 [ ] 天正10年()のにおいてはと共に先鋒部隊の将として抜擢。 忠正と長可はに口よりの武田領へと侵攻し、14日にはのを降伏させ、のも潰走。 15日には逃げる正直の部隊を追撃し数十騎を討ち取る活躍を見せる。 の守備する攻めでは信忠率いる本隊を待ち合流。 を上り本隊とは別行動で動き高遠城に押し寄せると森隊は三の丸の屋根に登り、板を引き剥がし城内へ鉄砲の一斉射を加え陥落させ、さらにそこから本丸方面の高遠城の守備兵を射撃し多くの敵を倒す。 また、本丸の制圧においても自ら槍を取って戦い、手に傷を負うも構わず城兵を突き倒すなど奮闘する。 しかしながら本隊到着前に団と共に二度の軍規違反を侵しており、この事は信長に書簡で注意を受けている。 そのまま忠正と共にへ侵入し、の接収やら国人衆の人質の徴収に当たっている。 これらの戦功から武田氏滅亡後、信長からとして信濃(・・・)と20万石を与えられた。 また長可の旧領である金山は弟の成利(蘭丸)に与えられている。 信濃入領 [ ] 天正10年(1582年)4月、に入り領内の統治に取りかかった長可であったが、信濃国の政情はいまだ不安定であり、さらにの本領であると接する長可の北信濃四郡は上杉氏と結んだ旧武田家臣なども存在していた。 そういった中でにと結んだ旧武田家臣のが地侍など8000人を率いて蜂起。 一揆勢は廃城となっていたを改修して本拠とし、の守るを包囲するという事件が起こるが長可は一揆勢を撫で斬りにして わずか2日でこれを鎮圧し、など他の反抗的な勢力も領内から追放し支配を確立する。 残った信濃国衆も一応は臣従の姿勢を見せたが、領内の統治が容易では無いことを痛感した長可は、国衆の妻子を海津城に住まわせることを義務付け、また一揆に参加したと見られる近隣の村の住民の一部も強制的に海津城下に住まわせた。 また、領内への禁制発布、信濃国衆との会談や所領安堵の判断など政務を精力的にこなし、統治の確立に努めた。 越後侵攻 [ ] 信濃国の仕置きを済ませた長可は、上杉景勝がに攻められている越中の救援に向かったという知らせを受けて、同年のに5,000の兵を率いて越後国への出兵を開始。 越後国境付近の関川口の守りを突破し芋川親正・安田某 らの守る(大字田切字東裏にあった城)を落として 、上杉領深くまで侵攻した。 6月までに春日山城からほど近い二本木()を守るを破り 、同地に陣を張った。 当時、春日山城の兵は殆ど魚津城の救援に向かっていた。 手薄な春日山城に長可が肉薄すると、上杉景勝も春日山城防衛のために魚津城の救援を諦めざるを得なかった。 景勝は5月27日の陣を引き払い春日山城へと兵を返す事となった。 これによって景勝の援護を得られなかった魚津城は柴田軍の攻撃によって陥落し、上杉軍は越中国における重要な拠点を失う。 しかし6月2日にで信長が討たれると、敵地深くに進攻していた長可は一転して窮地に立たされた。 6月8日には二本木の陣を払って越後国から撤退。 軍議を開いて信長の仇を討つことを決定した。 しかし信濃国衆にも信長死亡の報が伝わっており、長可配下の信濃国衆たちはを除いてほぼ全員が長可を裏切り、森軍を殲滅する為の一揆を煽動していた。 これに対し長可はまず海津城の人質を逃がさぬように厳命し、入城後はただちに人質を連れて南進した。 長可の家臣・が一揆と交渉したが、一揆衆は森勢の前に立ちふさがったため、長可は合戦を仕掛け勝利する。 森軍は松本に到着すると人質を残らず処刑し木曽谷方面へと撤退した。 唯一、撤退に協力した出浦盛清に長可は深く感謝し脇差を与えている。 撤退途中に長可は「のも暗殺を画策している」という密告を城下で商売をしていた金山の商人から受けた。 長可は敢えて木曽福島城を迂回せず、まずは到着日を書いた書状を義昌に送るとわざとそれより1日早い日取り、それも深夜遅くに城門をで破壊して木曽福島城に押し入るという策略を実行した。 一気に乱入した家臣らは義昌の息子の岩松丸(後の)の身柄を拘束し、暗殺の企みを封じた。 翌日になり森軍は木曽福島城を後にしたが長可は岩松丸を拉致したまま解放せずそのまま帰路を無事に往く為の人質として利用している。 東美濃入りした後ものなどが暗殺を企てていたが、木曾家から手を出さぬようにと懇願された事で結局は手出しはされず森軍は無事に旧領の金山へと辿りついた。 なお、安全圏に達したと判断した長可は金山に程近いでようやく岩松丸を解放している。 東美濃統一 [ ] 天正10年(1582年)6月24日に無事に旧領への帰還を果たし、翌日には岐阜城に赴き、、に挨拶し弔辞を述べたという。 各務元正ら成利に与力として付けていた部下らと合流し旧領に復した長可であったが、元与力の・らが離反してその勢力は衰退しており、更に・・遠山友忠・らも長可の排斥を企むなど周囲は敵に囲まれた状態であった。 そこで長可は敵に一致団結される前に各個撃破する事を決め、7月2日未明に肥田忠政のを攻めた。 忠政は病を患っていた為、同夜にの斎藤利堯を頼って落ち延びた。 長可は7月3日の牛ヶ鼻砦での合戦を経て跡に入り加治田城を攻めたが、これを落とすことは出来ず烏峰城に帰還した()。 しかし同年中に肥田忠政の病は重くなり加治田城で死去し、跡継は家臣の会議でも決まらなかった為、肥田家臣は離散し森家に属す者も多かった。 長可は元家臣であるのとの長谷川五郎右衛門が信州から帰還しても森家に挨拶も使者も寄越さず、更に肥田忠政に内通したとして大森城を重臣のに攻めさせ、更に上恵土城を攻めた為、奥村元広は城を捨てて落ち延び、長谷川五郎右衛門は自害した。 長可は同月中に・下麻生城・野原城・御嵩城を攻略し、の、の、の妻木頼忠は戦わず森家に帰順したため 、森家は東濃において大きく勢力を伸ばした。 更に長可は、間を置かずに幸田孫右衛門を大将として遠山友忠の本拠であるへと軍勢を派遣するが、道中で孫右衛門は遠山軍の奇襲を受けて戦死した為、苗木城攻略は頓挫した。 この失敗を受けて長可はひとまず戦を止め久々利頼興と和睦し、遠山友忠とは睨み合いを続けた。 また外交面では変後すぐさま羽柴秀吉に接近し、東美濃の諸氏から秀吉への取次の役目を申し付けられ、「当国に不届き者が居れば成敗するように」という旨の書状が、丹羽長秀、の連名で出され反抗諸氏の領に攻め込む大義名分を得ている。 翌天正11年()のには宴を開いて久々利頼興を金山城に呼び寄せてにより仇討させ、同日夜間にを攻めたて落城させた。 またに際して柴田勝家と連携して織田信孝家臣の・が兵を動かし須原城・洞戸城を攻略したという報が入るとと連絡を取って遠藤領に侵攻。 立花山城に篭った遠藤軍を攻め立て、遠藤清左衛門・池戸与十郎・井上作右衛門を討つも要害の立花山城は容易には陥落せず、やむなく遠藤軍の補給路を断っての兵糧攻めへと切り替えた。 蓄えの充分で無い立花山城の兵糧はすぐに尽き、進退極まった遠藤軍は討死覚悟で総攻撃に出ようとするが佐藤秀方から信孝自刃の知らせを聞かされると戦意を喪失し石神兵庫・遠藤利右衛門の両重臣を人質に差し出し降伏。 長可は木尾村で慶隆・胤基両名と会談し和睦を成立させ、降伏を飲んだ礼として鞍付馬を両名に贈呈した()。 その後、兵を再編し同年5月に自ら出馬し二度目の苗木城侵攻を開始。 5月20日に陥落させ、遠山友忠は城を脱出してを頼って落ち延び、城に残った遠山兵は城を枕に悉く討死した。 更に、明知城の(、遠山一行等)と、信孝方の主・小里光明を美濃国から追放し、東美濃一の堅城であるも城主・団忠正が本能寺の変で信忠と共に討ち死にしていたため接収し 、信孝の重臣であった斎藤利堯も加治田城を手放したためを含めてこれを接収し、長可は旧領復帰から11ヶ月ほどで美濃における抵抗勢力を完全に駆逐し、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した。 統一後は領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考え、加治田城を始めとするいくつかの城を処分としている。 また、この頃より書状の上で 武蔵守を自称するようになっている。 小牧・長久手の戦い [ ] 森長可戦死の地とされる武蔵塚(愛知県長久手古戦場) 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄との間で軍事的な緊張が高まり戦が不可避となった際には、岳父である池田恒興と共に秀吉方に付いた。 出陣に当たり、まずは金山より南への船を通行止めとして尾張への流通を断ち、関成政や遠藤慶隆に参陣を呼びかけた。 関・遠藤勢と合流した長可は尾張国へと侵攻するが既に池田軍はを攻略しており、長可は功を挙げるべく戦略的に意義のあるの占拠を狙い軍を動かす。 3月16日にに出陣を願い出て許可を得ると同日夕方出陣し夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒()に陣を張った。 しかしながら小牧山は15日に徳川軍の手に落ちており、長可出撃を各地に配した忍びの連絡により察知した家康は直ちに・・ら5,000人の兵を羽黒へ向けて派兵した。 そして、17日早朝に森軍を捕捉した徳川軍は羽黒の長可へと奇襲をかけ戦端を開く() 奇襲を受けた当初は森軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに立て直し戦形を維持したが、迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れると、それに対処すべく一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みた。 しかしながらこれを一部の兵が敗走と勘違いして混乱し始め、その隙を徳川軍に攻められ森軍はあえなく崩れ、隊列を外れた兵は徳川軍に次々と討たれた。 もはや戦形の維持が不可能になった上に敵に包囲された長可は指揮の効く兵だけで強引に北側の包囲の一角を破り撤退に成功したが、退路の確保や追撃を振り切るための退き戦で親子など300人余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した。 後に膠着状態の戦況を打破すべくを総大将とした中入り部隊に第2陣の総大将として参加。 この戦に際して長可は鎧の上にを羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望んだ。 徳川家康の本拠を攻略するべく出陣し、道中で撹乱の為に別働隊を派遣してやに放火して回った。 その後、岐阜根より南下してで池田軍に横合いから加勢しを討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守るも討ち取った。 しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第3陣のらが破ったものの、その間に家康の本隊が2陣と3陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となっていた。 もはや決戦は不可避となり長可は池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び、の軍と激突して奮戦するもの家臣・水野太郎作清久配下の鉄砲足軽・杉山孫六の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した。 そこに現在武蔵塚が建てられた。 享年27。 死後 [ ] 森可成(右)と長可(左)の墓 (岐阜県可児市可成寺) その後、死体を担ぎ上げて撤退しようとする森軍の兵士に配下のが追いすがり森軍の兵を散らすがこの時、急時のため徳川軍には「首取るに及ばず」という指令が出ており、八蔵は葉武者の如く突出してきた長可を大将首とは思わずに鼻を削ぐと脇差を奪い取りその場を後にしてしまう。 更にその後に別の武者がその死体に駆け寄り、首を取ると旗印を外して捨て、長可の羽織っていた白装束を脱がせそれで首を包むと槍の先に付けて馬に乗り、武功を大声で誇りながらその場を立ち去ったが、実はこの武士は徳川の兵では無く森家の田中某という小姓であったという。 この為、長可の首は徳川軍には渡らず、金山に持ち帰られた。 戦後、遺言状 が各務元正、、ら3人の家老によって秀吉の元に届けられた。 遺言には名器を秀吉に譲る旨などが書かれていたが、「仙千代(後の)は秀吉様のお側で奉公すべき」や「金山は誰か信頼できる武将に任せるように」など裁量に困る意見も並んだが結局の所、秀吉も自分に味方した武将の領地を没収する訳にはいかず遺言のこの一節だけは無視して、仙千代を跡継ぎに指名し森家も金山にそのままとどめ置かれた。 人物 [ ] 人柄 [ ]• 父の可成と同様に槍術に優れ、その秀でた武勇から、「 鬼武蔵」と称された。 筋骨たくましい偉丈夫として戦場での勇ましさを伝える逸話も多い。 非常に気性の激しい人物で、他の織田家臣団の奉公人を些細なことで怒りに任せて槍で突き殺したり、同僚に暴言を吐くなどして諍いを起こすことも少なくなかった。 初出仕の時期には、既に可成の後継扱いであったためとして仕えた期間は無い。 しかしながら弟の(蘭丸)同様に信長の寵愛を受けており、甲州征伐後の長可の所領の石高は織田家臣の20代の武将の中では最も高く、譜代の重臣と比べても遜色ない物であった。 戦でも度々命令違反や軍規違反を犯し、それについての書状 もいくらか残されているが、信長から下される処分は口頭や書状での注意に留まり蟄居などの重い処分は一度も受けておらず、信長の重度の寵愛ぶりが窺える。 書を好み、能筆であったという。 戦場にも常にと紙を携帯しており、何か報告事がある時はそれらを取り出して自ら筆を取った。 を嗜んでおり、主催の茶会などにも招かれている。 また、名物の収集も趣味であり、特にの「沢姫の茶壷」は秀吉から金2枚を借金してまで手に入れたという。 なお、天正12年3月26日朝、妻である池田氏に宛てた遺言に、、は秀吉に進上、悪しき茶の湯道具は刀や脇差とともに弟の千丸に与えると後事を託しており、名物茶器の重さが痛感されるとともに 、長可の茶の湯への執心と名物の資産価値の大きさをうかがうことができる。 上記の遺言は宛とされてきたが 、これは明かな誤りで、妻の池田氏に宛てたものである。 本来の宛所の位置に「尾藤甚右衛門、この由御申し候べく候」云々とあり、返し書(追而書)が本文の後にくる変則的な書式のため従来の研究者は幻惑されたといえる。 尾藤知宣を介しつつ、後事を妻に託しており、それも「ー候」とか「申候べく候」というようにきわめて丁重な言いまわしで、このことは森夫婦の間柄が役割分担の明確な対等の関係にあったことを物語っている。 武辺一辺倒に思われがちだが政務への参加も意欲的であり、上記のように金山の町の発展の為に商業を重視した政策をとった。 また、信濃時代もなかば強引な手段ではあるが政情不安の信濃を抑え付け、入領から1ヶ月あまりで越後への遠征を実現している。 逸話 [ ]• というの名馬を所有していたが、名の由来については「居城・の石段100段を駆け上がれるほどの健脚を持っていた」という伝と「100段()を全力疾走できる」という伝とがあるがあまりよく分かっていない。 「人間無骨」の銘が彫られた二代目(之定)作の大身の十文字槍を愛用していた。 これは、この槍の前では「人間の骨など無いも同然」という鋭い突き味を持っていた事から名付けられたとされ、事実、長可は初陣でこの槍を振るい、27にも及ぶ首級を挙げたという。 武蔵守の由来については次のような伝説がある。 信長が京都に館を構えた頃、近江の瀬田に関所を設けて諸国大名の氏名を記し通行させた。 長可が関所に差し掛かると関守に下馬して家名を名乗るように言われたが、長可は急いでいるとして下馬せずに名乗って通ろうとした。 立ちふさがる関守を「信長公の御前ならともかく、この勝蔵に下馬を強いるとは何事」と斬り捨て、止め立てすれば町を焼き払うと叫んだので、木戸は開かれた。 長可がこの一件を話し裁定を仰ぐと、信長は笑って、昔五条橋で人を討ったがいたが、長可も瀬田の橋で人を討ったとして、今後は武蔵守と改めよと言ったという。 高遠城攻めの時は激戦で長可の鎧の下半身は高遠城兵の返り血で真っ赤に染まっており、その姿を見たは思わず手負いかどうか尋ねたという。 米田城から加治田城に肥田玄蕃が逃げのびた事について、長可は「加茂山(米田城)には地の地の利が無い。 加治田は利のあるところである。 加治田にかたまり、わが勢を引き受けようとする場所に逃れたのは、なかなか天晴な大将である」と述べたと伝わる。 小牧・長久手の戦いに出陣する前に、「娘のおこうは侍ではなく、京都の町人で医師のような人物に嫁がせるように」という遺言を妻の池田氏に対して残している。 森長可の嫡男である森玄蕃を、城主が保護したとされ、玄蕃は元和五年 1619年 に、42歳で亡くなっている。 主要家臣団 [ ] 譜代 [ ]• (次右衛門)• 信濃時代与力 [ ]• 加木屋正則 本能寺以降 [ ]• (主)• (主)• 関連小説 [ ]• 『戦国鶴の軍団 鬼の武蔵・森武蔵守長可烈伝 』(、2002)• 『戦国の鬼 森武蔵』(、2007) 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 兼山歴史民俗資料館には長可の発給したものと伝わる地元商人に専売権を認める旨の書かれた書状が展示されている。 一揆勢の犠牲者は森軍に首を取られたと確認されただけでも2450人に及んだ。 『越後治乱記』に拠れば守将は「安田惣八」となっているがこの名で知られるは2年前に死んでおり、誤記の可能性が高い為、名は伏せる。 『越後治乱記』によれば長可の軍勢は侵攻時に14ヶ村に放火していったという。 出浦盛清が長可を裏切らなかった理由については森家がの一つ、伴家と密接な関係を持っていた事などが挙げられる。 史料、軍記物いずれにも記載が無いために詳しい方法は不明。 岩村付近で戦闘が行われたという記録も無い。 受領名の「武蔵守」は信長から授かったとするものもあるが少なくとも信長存命時に「森武蔵守」名義の発給文書や手紙などは一切存在せず、全て「森勝蔵」と書かれている。 援助を募った背景には新領の保守の為に信頼できる重臣やある程度の兵を美濃に残さなければならなかったという事情も多少影響したと思われる。 出典 [ ] []• 『兼山町史』など。 『史料綜覧』巻10• 『北越軍記』• 『遠山佐渡、遠山半左衛門尉宛の12月21日付け羽柴秀吉他連署状写』 (天正10 1582 年)• 長久手市「」『長久手市』。 2018年5月10日閲覧。 著『長久手合戦記』• 天正10年2月23日付『織田信長黒印状』など• 宗及自會記• , p. 222-223. 兼山町史編纂委員会「森武蔵守の由来」『兼山町史』岐阜県可児郡、1972年、1003頁。 参考文献 [ ]• 上越市史専門委員会編『上越市史叢書9 上越の城』(新潟県、2004)• 奥村佐右衛門尉義喬『現代語訳 大通寺本 金山記全集大成』(渡辺千明訳 兼山町教育委員会、1986)• 『戦国武将と茶の湯』淡交社、1986年。 『戦国武将の手紙を読む』角川書店、1991年。 「戦国「名将夫婦」を語る10通の手紙」『歴史読本』42巻10号、1997年。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 先代: 森長可 次代:.

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