法隆寺 ホテル。 門前宿 和空法隆寺

門前宿 和空法隆寺

法隆寺 ホテル

日本古代の名刹が建ち並ぶ古都・奈良。 その奈良の古寺のなかでも、真っ先に見ておきたい観光スポットといえば、法隆寺でしょう。 法隆寺は、教科書でもおなじみの聖徳太子(厩戸皇子、うまやどのおうじ)ゆかりの寺です。 境内の広さは18万7000㎡と、東京ドーム4個分の広さとなっています。 日本初の世界遺産として、日本人はもちろん、外国人観光客にも大人気の観光名所です。 その法隆寺には、法隆寺を世界遺産に登録たらしめた、190以上もの国宝・重要文化財があります。 指定文化財以外を含むとその数は2300点におよび、飛鳥時代の栄華を今に伝えています。 有名な五重塔をはじめ見どころ満載の法隆寺ですが、今回はそのなかでも特に注目すべき法隆寺の国宝建築物を6つ、ピックアップしました。 法隆寺に向かわれる方はぜひ、ここで法隆寺観光の予習をしていってくださいね。 法隆寺 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1 0745-75-2555 8:00~17:00 11月4日〜翌2月21日は〜16:30 なし 西院伽藍内、大宝蔵院百済観音堂、東院伽藍内 共通券 大人1000円、小学生500円 もとは聖徳太子の父の遺志によって建てられた 法隆寺が開かれたのは607年、日本初の女性天皇・推古天皇の時代です。 法隆寺は、その推古天皇を補佐した聖徳太子(厩戸皇子)によって創建されました。 聖徳太子といえば、「十七条の憲法」「冠位十二階」を定め、天皇による中央集権化を目指した政治家です。 非常に頭脳明晰な人物で、「一度に10人の言葉を聞き分けた」という伝説が残っています。 ) もともと、法隆寺は聖徳太子の父・用明天皇が、自らの病気平癒のために発願したのが始まりでした。 しかし、祈りむなしく用明天皇は崩御。 聖徳太子は父の遺志を継ぎ、推古天皇とともに、法隆寺を完成させました。 法隆寺は聖徳太子が住んでいた斑鳩宮(いかるがのみや)の隣に建てられたため、別名「斑鳩寺(いかるがでら)」とも呼ばれています。 法隆寺は世界最古の木造建築群 非常に広い境内を持つ法隆寺。 東大門を境に西院伽藍と東院伽藍に分かれており、特に西院伽藍には五重塔をはじめ、世界最古の木造建築が立ち並んでいます。 日本最古の歴史書『日本書紀』によると、法隆寺は670年に火事のためすべて焼け落ちたとあります。 しかし、711年までには再建されていたことが分かっています。 とはいえ、法隆寺が飛鳥時代当時の姿を今にとどめていることに変わりはありません。 その文化的価値が評価され、平成5年(1993)に日本初のユネスコ世界文化遺産に登録されました。 それでは次ページより、見るべき法隆寺の国宝建築を紹介していきましょう。 この門の先に、法隆寺の中核である西院伽藍が広がっています。 中門の特徴は、門を分かつように真ん中に立つ柱です。 この柱によって、中門に4つの柱間が生まれています。 日本の寺院は柱間を奇数にするのが一般的であるため、この構造はとても珍しいものとなっています。 門を守護する2駆の金剛力士像は日本最古の仁王像であり、同じく国宝に指定されています。 傷みは激しいものの眼光鋭く、「生半可な気持ちで入るな」と参拝者に警告しているかのようです。 中に入ると、法隆寺の本尊である釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来の釈迦三尊が鎮座しています。 天井を見上げれば、天人と鳳凰が飛び交う天蓋が吊されているのが分かります。 極楽浄土の世界を思わせるきらびやかさです。 文化財保護法制定のきっかけとなった壁画 金堂には、敦煌の莫高窟(とんこうのばっこうくつ)、アジャンター石窟群の壁画にならぶ世界的に有名な壁画がありました。 しかし昭和24年(1949)、火災により焼亡。 日本は世界に誇る至宝を失ってしまいました。 これをきっかけに、文化財保護法が制定されたのです。 現在見ることができるのはレプリカの壁画ですが、焼け焦げたオリジナルの壁画は収蔵庫に大切に保管されています。 復元するための調査は今も続けられており、公開される日が待ち望まれています。 5mもの高さを誇る五重塔は、法隆寺のシンボルともいえるでしょう。 上へ向かうにつれて屋根が小さくなっていくのが特徴で、安定感のある趣です。 中に入ると、塔を支える心柱や木組みの構造をよく見られます。 これらは地震の揺れをやわらげる効果があり、スカイツリーなど現代の建築物にもその技術が応用されています。 法隆寺の五重塔の最下層には、奈良時代初期の彫塑群が安置されていて、うち80点が国宝に指定されています。 網越しからしか覗くことはできませんが、立ち並ぶ彫塑群は一見の価値ありです。 相輪の「鎌」の伝説 五重塔の先端に伸びているのは、相輪とよばれる装飾です。 各地の五重塔に見られる装飾ですが、とりわけ法隆寺の五重塔の相輪には、変わった部分があります。 それは相輪に鎌がかけられていることです。 高層ビルもない当時は、寺院の五重塔がもっとも高い建物だったため、火災とは縁切れぬものでした。 この鎌も、落雷による火災がきっかけでかけられたといわれています。 目視で確認するのはやや難しいため、はっきりと鎌を見てみたい方はオペラグラスや双眼鏡を手に五重塔をおとずれましょう。 いずれも法隆寺の威光を誇張した伝説だといわれています。 単廊式で、中門から奥の大講堂へとつながっています。 注目すべきは円柱です。 よく見ると、柱の中央が膨らんでいるのがわかります。 エンタシス様式と呼ばれ、工法そのものは古代ギリシャに端を発するものです。 パルテノン神殿などでよく見られます。 そのため、古代日本とギリシャの間になんらかのつながりがあったのではといわれていますが、定かではありません。 近くで見ると円柱の形が分かりづらいので、距離を置いて眺めてみましょう。 平安中期に落雷のため焼け落ちたものの、正暦元年(990)に再建されました。 そのため、法隆寺の建造物としては比較的新しめではありますが、西院伽藍ではもっとも大きく、目の前に迫りくるような存在感があります。 講堂の中から暖簾を通して見る金堂と五重塔も、また風流です。 中に入ると、国宝の薬師三尊像が参拝者を出迎えてくれます。 薬師三尊像中心の薬師如来座像は2. 5mもの高さがあり、金堂の薬師如来よりもふっくらと丸みを帯びているのが特徴です。 両隣には日光菩薩・月光菩薩とよばれる脇侍が控えています。 大講堂には、ほかに需要文化財の四天王像がまつられています。 大講堂は仏像ファンなら必ず見ておきたいスポットです。 その先を歩いて行くと、東院伽藍が見えてきます。 東院伽藍は聖徳太子の居住地であった斑鳩宮跡につくられたもので、夢殿は聖徳太子の供養のために建てられました。 東院伽藍の中心には、夢殿と呼ばれる八角円堂があります。 ロマンチックな名前に違わず、その気品に満ちたたたずまいは、ドイツの世界的建築家ブルーノ・タウトをして「建築の真珠」と言わしめたたほど。 ぜひぐるりとまわって、その建築美を堪能しましょう。 堂内も厳かで、神秘的な空気が流れています。 本尊の救世観音像は、聖徳太子の現し身 夢殿の本尊は救世観音菩薩です。 聖徳太子の等身を模したといわれ、創建より1100年以上、決して見てはならない絶対秘仏として護られてきました。 しかし明治17年(1884)、東洋美術家フェロノサと岡倉天心によってついに開帳され、その全貌が明らかになりました。 像はすらりと細身な体つきで、顔におだやかな笑みをたたえています。 絶対秘仏であったため保存状態はきわめてよく、その高さは178. 8cm。 本当に聖徳太子の等身大であれば、当時としてはかなりの長身といえるでしょう。 以後、この夢殿の本尊は、現在も春季と秋季の年に2回、開帳されています。 時間のある方は、ぜひ法隆寺の宝物の数々にも目を向け、聖徳太子の生きた飛鳥時代に思いをはせてみてくださいね。 奈良市 - 文化遺産,寺院・教会,広場・公園 日本の歴史的文化が立ち並ぶ、古都「奈良」。 日本人でもそのすべての歴史を知っている人は少ない中、日本文化は日本人だけでなく外国人にも愛されています。 そんな日本の歴史を知ろうと日本に訪れる外国人の内、奈良に訪れる外国人は年間で160万人にも及びます。 そんな国内外から愛される奈良の一番の観光スポットと言えば、「奈良公園」ではないでしょうか? 今回は、その奈良公園を回る旅の理想のコースをまとめてみました。 また、多くの歴史的建造物や、自然、生き物と触れ合える奈良公園での「観光の注意点」についても紹介します。 現存する貴重な建物の維持、自然の維持のためにも必要なルールになりますので、日本人としてのマナーを考え、奈良公園の魅力に触れていきましょう。 奈良市 - 文化遺産,寺院・教会 「東大寺」は華厳宗大本山の寺院で、奈良時代に聖武天皇が国力を尽くして作られた歴史ある寺院です。 奈良県と聞くと大仏を思い浮かべる方も多いようですが、奈良の大仏は「東大寺」の中にあります。 大仏が収められている大仏殿は789年に完成しましたが、1180年と1567年に消失してしまったため、その都度再建され現在の姿となりました。 「東大寺」は1998年に「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されたこともあり、現在も多くの観光客が訪れる人気スポットになっています。 修学旅行の目的地となることが多く子供の頃に行ったという方も多いと思いますが、「東大寺」は大人になってから改めて訪れてみると、子供の頃には気づかなかった魅力がたくさん詰まっています。 奈良 - 観光名所 奈良県の観光名所は、日本初の世界文化遺産の「法隆寺」、野生の鹿が見られる「奈良公園」、空中散歩ができる「谷瀬の吊り橋」、桜や紅葉がきれいな「吉野山」など様々なスポットがあります。 また、奈良県の名物料理として、お米をお茶で炊いた「大和の茶がゆ」、柿の葉でさば寿司を包んだ「柿の葉寿司」、細くてコシの強い麺の「三輪そうめん」などが食べられます。 初詣の過ごし方はパワースポット巡りや縁結び神社巡り、初詣デート、いろいろな神社の甘酒の飲み比べをしてみたりなどいろいろな楽しみ方があります。 今回は奈良にある初詣におすすめの神社やお寺を紹介します。 今年の情報については、各寺社のホームページをご確認ください。 奈良市 - 世界遺産 ,歴史スポット,祭り・イベント 東大寺は古都・奈良にある世界遺産です。 聖武天皇の時代に創建され、その歴史は1200年以上。 遠足や修学旅行の定番として、訪れた人も多いことでしょう。 世界最大の木造建築である大仏殿をはじめ、法華堂、南大門、二月堂など、貴重な国宝建築の数々を目の当たりにすることができます。 特に、大仏殿内に堂々と鎮座する盧舎那仏(るしゃなぶつ)の存在感は圧倒的です。 東大寺は建立されてから2度、戦火により焼失したため、現在の大仏殿は江戸時代のものですが、それでもその威容は失われることなく、人の世を見守り続けています。 こうした東大寺の建築はもちろん素晴らしいものですが、実は、境内で行われる年中行事も見逃せません。 無数の光が灯される万灯会や大仏様のお身ぬぐいなど、いずれも必見です。 今回は仏教の幽玄の世界へと誘う、東大寺の主たる年中行事をご紹介します。 奈良市 - 博物館 「奈良国立博物館」は、世界遺産である東大寺、興福寺、春日大社が点在する奈良公園の中にあります。 「奈良国立博物館」は、国内に4つある国立博物館の一つで、1895年に東京国立博物館に次ぐ2番目の国立博物館として開館しました。 国宝・十一面観音像など国内屈指の仏教にまつわるコレクションは圧巻で、常設展示のほか名品展・特別展なども随時開催されています。 聖武天皇ゆかりの名宝を展示する「正倉院展」は、毎年秋に開催され、20万人を超える観覧者が訪れる一大イベントとなっています。 いにしえの都・奈良が誇る仏教芸術の名品の数々に出会い、歴史と文化のすばらしさにふれることができる「奈良国立博物館」の魅力と概要、見どころについて紹介します。

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【奈良】法隆寺観光でじっくり見るべき6つの国宝建築:五重塔・夢殿ほか

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出典: 日本初の世界遺産・法隆寺の参道に開業する門前宿「和空 法隆寺」は、「ひとりでも多くの方に寺社へ足を運んでもらうために」を活動理念として掲げている一般社団法人全国寺社観光協会(本部事務局:大阪市北区/近畿経済産業局2018年第2回関西インバウンド大賞特別賞[新規性・独創性部門]受賞)が監修する「参道活性プロジェクト第1弾」となる和文化体験型の宿泊施設。 これは、法隆寺を中心とした「まちなか観光」を実現するため、斑鳩町(いかるがちょう)が2014年に条例を改正、用途制限を緩和したことによって実現した規制緩和第1号ホテルで、歴史文化資源豊富な斑鳩の里の景観に配慮した建物となっている。 設計施工は積水ハウス株式会社が担当した。 出典: 奈良県はこれまで、歴史観光地として知名度抜群で年間1,000万人以上の来訪者がありながら、宿泊施設の絶対数が少なく、とくにインバウンドの9割が日帰りの通過点となっていることが課題となっている。 今回、世界遺産法隆寺の参道にユニークな和文化体験型の門前宿が誕生することによって、奈良・斑鳩・法隆寺観光が滞在回遊型に変化していく契機となることが期待されているという。 和みの和空間を提供する門前宿「和空 法隆寺」の館内には、畳敷きにローベッドを配した和モダンな寛ぎの客室を中心に、茶道・華道・書道・香道など各種「和カルチャー・いろはのい体験」ができる100畳の大広間、奈良の地酒を味わいながら日本の歴史や文化、仏像トークが楽しめる法隆寺Gallery BAR(ギャラリー・バー)、日本の風呂文化のルーツでもある寺湯の流れを汲む貸し切り可能な門前風呂などがある。 出典: 【同施設 概要】 施設名称:門前宿「和空 法隆寺」(もんぜんやど わくう ほうりゅうじ) 所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺1丁目5-32 管理・運営:株式会社和空プロジェクト 設計・施工:積水ハウス株式会社 宿泊開始日:2019年9月8日(日) 構造:軽量鉄骨造、2階建、2棟(西方館・東方館) 敷地面積:4375. 14㎡(西方館2318. 70㎡・東方館2056. 44㎡) 延べ床面積:西方館 1436. 48㎡・東方館 1498. 49㎡、計2934. 新規開業予定は同ホテル以外に確認できなかった。 生駒郡には13施設、224室が提供されている。 同施設の他にも宿坊や小規模な旅館が多く展開しているエリア。 【合わせて読みたい】.

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雲肘木(中門) 創建 [ ] 法隆寺のある斑鳩の地は、の南端近くに位置し、を通じて(現・奈良県)と(現・南部)とを結ぶ交通の要衝であった。 付近にはを始めとする多くのやの遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる。 『』によれば、こと厩戸皇子(の皇子)は推古天皇9年()、からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年()に斑鳩宮に移り住んだという。 法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。 この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。 の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭わず、推古朝に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。 しかし、『日本書紀』には9年()に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が明治20年()頃から出されるようになった(、、ら)。 これに対し、『書紀』の記載は信用できず、西院伽藍は推古朝以来焼けていないと主張する学者たちもおり(、ら)、両者の論争(法隆寺再建・非再建論争)はその後数十年間続いた(論争の詳細については後述)。 らによる昭和14年()の旧伽藍(いわゆる若草伽藍)の発掘調査以降、現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、一度焼亡した後に再建されたものであることが決定的となり、再建・非再建論争には終止符が打たれた。 現存の西院伽藍については、7年()に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)ことから、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成していたとみられる。 同じく『資財帳』によれば、4年()には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられる。 現・西院伽藍の南東に位置する若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡であり、この伽藍が推古朝の建立であったことは、発掘調査の結果や出土の年代等から定説となっている。 また、14年()、東院の建物修理工事中に地下から掘立柱建物の跡が検出され、これが斑鳩宮の一部であると推定されている。 「日本仏教の祖」としての聖徳太子の実像については、20世紀末頃から再検討がなされており、『書紀』などが伝える聖徳太子の事績はことごとく捏造であるとする主張もある。 ただし、こうした聖徳太子非実在論に対しては根強い反論もある。 また、聖徳太子非実在論説を唱えるも、厩戸皇子というの存在と、その人物が斑鳩寺(創建法隆寺)を建立したことまでは否定していない。 金堂の「東の間」に安置される銅造坐像()の光背銘には「が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだと聖徳太子があらためて推古天皇15年()、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。 しかし、正史である『日本書紀』には(前述および後述の670年の火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。 前述の金堂薬師如来像については、昭和8年()、により、• 像自体の様式や技法の面から、実際の製作は7世紀後半に下るとみられる。 607年当時、日本における薬師如来信仰の存在が疑問視される。 銘文中の用語に疑問が持たれる。 という疑問が提出された。 この説はおおむね支持を得ており、薬師像は文字通り607年まで遡る製作とは見なされていない。 また、金堂の中央に安置される本尊は「に聖徳太子の冥福のためが造った」という内容のを持つ釈迦三尊像であり、これより古い薬師如来像が「東の間」に安置されて脇仏のような扱いをされている点も不審である。 2年()、がを襲った際に斑鳩宮は焼失したが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられる。 なお、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、10年()頃、僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものである。 中世以後 [ ] その後、聖徳太子の弟の子孫と伝えられる登美氏の支配下に置かれていたが、初頭には登美氏からの自立への動きが強まった。 この過程で法隆寺側と登美氏との間で発生したのが、である。 3年()には西院伽藍のうち大講堂、鐘楼が焼失し、大講堂が再建されたのは数十年後の元年()のことであった。 以後、7年()に南大門が焼失するなど、何度かの火災に遭ってはいるが、全山を焼失するような大火災には遭っておらず、建築、仏像をはじめ各時代の多くの文化財を今日に伝えている。 近世に入って、年間(17世紀初頭)にはによって、 - 年間(17世紀末~18世紀初頭)には5代将軍の生母によって伽藍の修造が行われた。 近代に入ると、の影響で寺の維持が困難となり、(11年)には管長千早定朝の決断で、聖徳太子画像(、いわゆる聖徳太子二王子像)をはじめとする300件余の宝物を当時のに献納し、金一万円を下賜された。 これらの宝物は「」と呼ばれ、その大部分はの法隆寺宝物館に保管されている。 明治の初め頃にはに所属するようになっていたが、(明治15年)にはと共にとして独立する。 (9年)から「昭和の大修理」が開始され、金堂、五重塔をはじめとする諸堂宇の修理が行われた。 「昭和の大修理」はを挿んで半世紀あまり続き、(昭和60年)に至ってようやく完成記念が行われた。 この間、(昭和24年)には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱とを焼損した。 このことがきっかけとなって、が制定されたことはよく知られる。 昭和の大修理の際に裏山に築堤(ちくてい)して貯水池を建設、そこから境内に地下配管して自然水利による消火栓を建設した。 (昭和24年)の金堂火災に際して、初期消火に活用された。 (昭和25年)に法相宗から独立し、を設立している。 (昭和56年)からは「昭和資財帳調査」として、寺内の膨大な文化財の再調査が実施され、多くの新発見があった。 調査の成果は『法隆寺の至宝-昭和資財帳』としてから刊行されている。 再建・非再建論争 [ ] 明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭っておらず、飛鳥時代に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。 しかし、歴史学や建築史学の進歩とともに、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が明治20年(1887年)頃から出されるようになった。 非再建論の主張• (様式論)法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。 、などの建築がの建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、の建築の影響を受けている。 (尺度論)薬師寺などに使われている基準寸法は(645年ので定められた)であるが、法隆寺に使われているのはそれより古いである。 (関野貞)• (干支一運錯簡論)『日本書紀』の法隆寺焼失の記事は年代が誤っており、が一巡する60年前の火災の記事(『聖徳太子伝補闕記』所収)を誤って伝えたものであろう。 (平子鐸嶺) 再建論の主張• 『聖徳太子伝補闕記』には荒唐無稽な記述が多く、これをもって『日本書紀』の記述を否定することはできない。 再建時に元のを再使用すれば古い尺度が使われることになるので、高麗尺が使われているといっても建設年代の決定的な証拠にはならない。 (喜田貞吉) 『日本書紀』天智天皇9年()4月30日条には「夜半之後、災法隆寺、一屋無余」(夜半之後(あかつき)、法隆寺に災(ひつ)けり、一屋(ひとつのいえ)も余ること無し)との記述があり、これを信じるならば、法隆寺の伽藍はに一度焼失し、現存する西院伽藍はそれ以後の再建ということになる。 最初に再建論を唱えたのは旧士で歴史家のとされ、(者)、(国学者)も明治20年代に再建論を唱えている。 一方、『書紀』の当該記述は信用できないとして、現存する西院伽藍は推古朝のもので、焼けてはいないとの主張(非再建論)が(建築史家)と(美術史家)により、明治38年(1905年)に相次いで発表された。 建築史の研究者である関野は、建築様式や建築に用いた尺度などの観点から、西院伽藍は推古朝のものであるとした。 関野によると、法隆寺西院伽藍の建築には、古い尺度である高麗尺が使用されているが、大化元年()を境として以後は唐尺が使用されるようになった。 したがって、西院伽藍は大化以前のものでなければならないとする。 平子は「干支一運錯簡説」を唱えた。 『書紀』は干支による紀年法を採用しているが、干支は60年で一巡するため、『書紀』の法隆寺火災の記事は実年代から60年ずれているとする説である。 『聖徳太子伝補闕記』(ふけつき)という書物に「庚午年四月三十日夜半有災斑鳩寺」という記載があるが、平子はこの「庚午」を西暦670年ではなく聖徳太子在世中ののことであるとし、『書紀』の編者は、推古天皇18年()の庚午年に起きた火災の話を誤って60年後の天智9年()の庚午年の条に入れてしまった。 また、610年の火災は小規模なもので、現存する西院伽藍は推古朝から焼けていないと主張した。 これにただちに反論したのが歴史家のである。 喜田は、焼失した伽藍が元の礎石を用いて再建されたのなら、尺度も古い高麗尺が使われているのは当然だとして関野説を批判した。 平子説については、『補闕記』には信用できない記述が多く、これをもって『書紀』の670年法隆寺火災の記事を否定することはできないとして、これをも退けた。 こうした再建論者・非再建論者の論争(法隆寺再建非再建論争)は昭和期まで続いた。 昭和期になると、関野貞、らが「二寺説」あるいは「新非再建論」と呼ばれる新説を唱える。 関野は従来の自説を改め、「二寺説」を発表した。 法隆寺の境内、現・西院伽藍の南東に位置する空地には「若草伽藍跡」あるいは「若草寺跡」と呼ばれる場所があり、塔跡の古い礎石が残されていた。 関野は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする伽藍(西院伽藍)と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする伽藍(若草伽藍)とは別の寺であり、に焼けたのは後者であるとした。 二寺説は、古くは(出身の元志士)という人物が唱えていたが、論文として公刊されたものでなかったため、一般には知られていなかった。 足立康の「新非再建論」(1939年)は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする仮称「用明寺」と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする釈迦如来を安置する仮称「太子寺」とがあり、670年に焼けたのは前者であるとする。 後に足立は、2つの寺院が対立していたのではなく、一つの法隆寺の中に釈迦像を祀る「釈迦堂」があって、その後身が現・西院伽藍であるとした。 昭和14年()に、らによって若草伽藍跡の発掘調査が行われた。 その結果、この伽藍は現存する西院伽藍(塔と金堂が東西に並ぶ)とは異なり、南に塔、北に金堂が南北方向に配置される「伽藍配置」であること、堂塔が真南に面しておらず、伽藍配置の中心軸が北西方向へ20度ずれていることがわかった。 一方、現存する西院伽藍の堂塔は南を正面とし、伽藍の中心軸はほぼ地図上の南北に一致している(正確には北東方向へ3度ずれている)。 したがって、仮に「若草寺」と「法隆寺」の2寺が同時に存在していたとすると、中心軸の方角が大きく異なる伽藍が近接して建っていたことになり、不自然である。 また、若草伽藍跡から出土した瓦は、単弁蓮華文の軒丸瓦と手彫り忍冬唐草文の軒平瓦を組み合わせた、古い様式のものであった。 こうしたことから、若草伽藍跡こそが創建法隆寺であり、これが一度焼失した後にあらためて建てられたものが現存する法隆寺西院伽藍であるということは定説となっている。 『資財帳』によれば、持統天皇7年(693年)、法隆寺にて仁王会が行われ、天蓋等が施入されていることから、現・西院伽藍のうち、少なくとも金堂はこの年までには建立されていたとみられる。 同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群と、中門安置の金剛力士(仁王)像が完成しており、同年頃までには五重塔、中門を含めた西院伽藍が建立されていたとみられる。 以上のように、「再建非再建論争」に関しては再建論に軍配が上がった形である。 ただし、創建法隆寺の焼失は『書紀』のいう670年であったのか否か、皇極天皇2年()の上宮王家(聖徳太子の家)滅亡後、誰が西院伽藍を再建したのか、現存の西院伽藍が創建法隆寺とは別の位置に建てられ、建物の方位も異なっているのはなぜか(現存の西院伽藍がほぼ南北方向の中軸線に沿って建てられているのに対し、旧伽藍の中軸線はかなり北西方向に傾斜している)、金堂、五重塔などの正確な建立年はいつか、現・西院金堂安置の釈迦三尊像と薬師如来像は本来どこに安置されていたのかなど、未解明の謎はまだ残っている。 現・西院伽藍のある土地は、かつて存在した尾根を削り、両側の谷を埋めて整地した後に建てられたことがわかっており、なぜそのような大規模な土木工事をしてまで伽藍の位置を移したのかも謎である。 非再建論の主な論拠は建築史上の様式論であり、関野貞の「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念が基底にあった。 一方、再建論の論拠は文献であり、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張した。 論争は長期に及びなかなか決着を見なかったが、(昭和14年)、によって聖徳太子当時のものであると考えられる前身の伽藍、式伽藍配置のいわゆる「」の遺構が発掘されたことで、再建であることがほぼ確定した。 また「昭和の大修理」で明らかになった新事実(現在の法隆寺に礎石が転用されたものであること、金堂天井に残されていた落書きの様式など)もそれを裏付けている。 2004年12月、若草伽藍跡の西側で、7世紀初頭に描かれたと思われる片約60点の出土が発表された。 壁と共に出土した焼けた瓦は7世紀初頭の飛鳥様式であり、壁画の様式も線の描き方が現・法隆寺のものより古風であるという。 出土した場所は、当時深さ約3メートルほどの谷であったところで、焼け残った瓦礫としてここに捨てられたと見られている。 実際に焼失を裏付ける考古遺物が多数発見された。 最近の研究 [ ] (平成16年)、は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度(千百万画素)で撮影した。 その画像から割り出した結果、建立した年のを発表した。 それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたやの部材は末から末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は後半の再建であることが改めて裏付けられた。 問題は、金堂の部材が年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年であるよりも前の伐採とみられることである。 伐採年が『日本書紀』における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する。 なお、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって確認できる最も外側の年輪がのものであり、この年が伐採年に極めて近いと発表されている。 他の部材に比べてなぜ心柱材のみが特に古いのかという疑問が残った。 心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。 また、は法隆寺の物差しは高麗尺ではなく、中国南朝尺の「材」であるとしている。 『隠された十字架』を巡る論争 [ ] (昭和47年)にが発表した論考『』は、西院伽藍の中門が4間で中央に柱が立っているという特異な構造に注目し、との類似性を指摘して、再建された法隆寺は王権によって子孫(ら上宮王家)を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じるための寺なのではないかとの説を主張した。 歴史学研究者の間では、一般的な怨霊信仰の成立が末期であることなどを指摘し、概ね梅原説には批判的であった。 梅原は、夢殿本尊の救世観音には背中がなく、体は空洞であるとした上で、この像は「前面からは人間に見えるが、実は人間ではない」「人間としての太子でなく、怨霊としての太子を表現」したものだとした。 しかし、これは事実誤認で、実際には救世観音像は丸彫り像であり、背中の部分も造形されている。 これはの『東亜美術史綱』中の救世観音に係る記述に「背後は中空なり」とあり、フェノロサの誤記をそのまま引き継いだための誤解であろうと指摘されている。 また梅原は救世観音の光背が「直接、太い大きな釘で仏像の頭の真後ろにうちつけられている」としたうえで、「釘をうつのはの行為であり、殺意の表現なのである」とした。 実際は、救世観音の後頭部にあるのは「太い釘」ではなく、単なる取り付け用の金具である。 このように、仏像の後頭部に設けた金具や枘によって光背を固定している例は、法隆寺金堂四天王像、の(蔵)などに例が見られ、「呪詛の行為」等の解釈は当たらない。 このように、梅原の『隠された十字架』の所説は基本的な事実誤認に基づいて推論を重ねている部分が多いため、美術史家からは厳しい評価を受けており、ほとんどの美術史家はあえて正面から反論しなかった。 とはいえ、本書が与えた影響は大きなものがあり、は本書に直接のインスピレーションを得て『』を発表したという。 また建築家のは、中門の中心にある柱が怨霊封じのためであるという梅原の説は退けつつも、梅原の問題提起を高く評価し、など的空間論を援用しながら、法隆寺西院伽藍の空間設計が、それ以前の様式が持つ圧迫感を和らげるために考案されたものであり、先行する(武澤はを百済大寺に比定して論を展開している)やで試みられた「四天王寺様式を横にした」空間構築の完成形であったのではないかと論じている。 近代以降 [ ]• (明治11年) 300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。 これがいわゆる「」で、後は大部分がの所蔵となり、ごく一部が皇室および保管となっている。 (明治15年) に転じる。 (明治17年) 、(天心)らにより法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿の像がこの時数百年ぶりに開扉されたという(異説もある)。 (明治36年) がとなり、で衰微していたの教えを復興する。 (昭和9年) 「昭和の大修理」が開始。 (昭和14年) 「」発掘。 (昭和19年) 下のから守るため、解体していた部材を安堵村(現・)などにさせる。 (昭和22年) 復元中に天井板部材に建築当時の落書きがあることを発見。 (昭和24年) 金堂壁画を火災で焼損。 (昭和25年) 法相宗を離脱し、を開く。 (昭和60年) 昭和の大修理完成。 (平成5年)12月9日 のに登録。 (平成25年)12月9日、大規模自然災害時には寺を緊急避難場所に開放する協定を斑鳩町と締結した。 境内の南大門前広場や聖徳会館を避難場所として提供する。 (平成27年)11月11日、1949年の火災で焼失した金堂壁画について、などと共同で総合的な科学調査を実施すると発表。 伽藍 [ ] 木造観音菩薩像(百済観音) 西院伽藍は南大門を入って正面のやや小高くなったところに位置する。 向かって右に 、左に を配し、これらを平面「凸」字形の が囲む。 回廊の南正面に 中門(ちゅうもん)を開き、中門の左右から伸びた回廊は北側に建つ 大講堂の左右に接して終わっている。 回廊の途中、「凸」字の肩のあたりには東に 、西に 経蔵がある。 以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。 金堂、五重塔、中門、回廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは間違いない。 金堂・五重塔・中門にみられる建築様式は、組物(軒の出を支える建築部材)に雲斗、雲肘木と呼ばれる曲線を多用した部材を用いること、建物四隅の組物が斜め(45度方向)にのみ出ること、卍くずしの高欄(手すり)、それを支える「人」字形の束(つか)などが特色である。 これらは法隆寺金堂・五重塔・中門、三重塔、三重塔(焼失)のみにみられる様式で、飛鳥様式とされる。 中門(国宝) 入母屋造の二重門。 正面は四間二戸、側面は三間。 日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である。 門内の左右に塑造立像を安置する。 日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なものであるが、風雨にさらされる場所に安置されているため、補修が甚だしく、吽形(うんぎょう)像の体部は木造の後補に代わっている。 門は現在、出入り口としては使用されず、金堂等の拝観者は回廊の西南隅から入る。 金堂(国宝) 入母屋造の二重仏堂。 桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。 上層には部屋はなく、外観のみである。 二重目の軒を支える四方のの彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため修理の際に付加されたものであるが、その年代については諸説ある。 は日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものであったが、、壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。 黒こげになった旧壁画(重文)と柱は現存しており、寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されているが、非公開である。 なお、解体修理中の火災であったため、初層の(もこし)部分と上層のすべて、それに堂内の諸仏は難を免れた。 この火災がきっかけで文化財保護法が制定され、火災のあった1月26日がになっている(金堂壁画については別項「」を参照)。 堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ(ただし、これらの間に壁等の仕切りがあるわけではない)、それぞれ釈迦如来、薬師如来、を本尊として安置する。 像(国宝) 「歴史」の項で述べた、、作の光背銘を有する像で、日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。 図式的な衣文の処理、杏仁形(アーモンド形)の眼、(古式の微笑)、太い耳朶(耳たぶ)、首に三道(3つのくびれ)を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著である。 (本像の詳細については別項を参照。 薬師如来坐像(国宝) 「歴史」の項で述べた東の間本尊。 本像のとされる・像は別に保管されるが、作風が異なり、本来一具のものではない。 像(重文) のの・の作。 元来の西の間本尊が中世に盗難に遭ったため、新たに作られたもの。 全体の構成、衣文などは鎌倉時代の仏像にしては古風で、東の間の薬師如来像を模したと思われるが、顔の表情などは全く鎌倉時代風になっている。 両脇侍のうち像はから明治初期の時代に行方不明になり 、現在は、フランス・蔵となっている。 現在金堂にある勢至菩薩像はギメ美術館の像を模して1994年に新たに鋳造されたものである。 立像(国宝) 飛鳥時代。 ・像の光背裏刻銘にらの作とある。 同じ堂内の釈迦三尊像、薬師如来像が銅造であるのに対し、木造彩色である。 後世の四天王像と違って、怒りの表情やポーズを表面に表さず、の上に直立不動の姿勢で立つ。 ・立像(国宝) 中の間本尊釈迦三尊像の左右に立つ、の木造彩色像。 記録(『金堂日記』)から2年(1078年)の作とされる。 なお、中の間と西の間の本尊の頭上にある天蓋(重文)も飛鳥時代のものである(東の間の天蓋は鎌倉時代)。 1949年に焼損した壁画については「」を参照。 金堂の焼損した壁画と内陣の部材は、大宝蔵殿裏の収蔵庫に保管され、長年非公開となっている。 収蔵庫の耐震性に問題がないことが判明したことから、法隆寺では焼損壁画を将来公開する方向であり、2021年を目途に公開の時期と方法が検討されている。 五重塔(国宝) 木造五重塔として現存世界最古のもの。 初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。 初層から四重目までの柱間は通例の三間だが、五重目のみ二間とする。 初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。 この塑像に使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推測される。 東面は『』(ゆいまきょう)に登場する、との問答の場面、北面は釈迦の、西面は分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨すなわちを分配)の場面、南面はのを表す。 北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。 五重塔初層内部にも壁画(現在は別途保管、重文)があったが、漆喰が上から塗られたことなどが原因で剥落してしまっている。 心礎(心柱の礎石)は、地下3メートルにあり、心礎内からは1926年にガラス製の舎利壺とこれを納める金製、銀製、響銅製の容器からなる舎利容器が発見された。 なお、舎利容器は、調査後、元の場所に納められている。 回廊(国宝) 金堂などとほぼ同時期の建立。 廊下であるとともに、聖域を区切る障壁でもある。 ただし、大講堂寄りの折れ曲がり部分より北は平安時代の建立である。 当初の回廊は大講堂前で閉じており、大講堂は回廊外にあった。 経蔵(国宝) 奈良時代の楼造(二階建)建築。 僧正坐像(重文)を安置するが、内部は非公開。 鐘楼(国宝) 経蔵と対称位置に建つが、建立時代は平安期。 大講堂(国宝) 桁行九間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺き。 平安時代の延長3年(925年)に焼失後の、正暦元年(990年)に再建。 薬師三尊像(平安時代、国宝)と四天王像(重文)を安置する。 東院伽藍 [ ] 東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。 『法隆寺東院縁起』によると、天平11年(739年)、斑鳩宮が荒廃しているのを見て嘆いた僧行信の創建である。 回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、回廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿の北に接して伝法堂が建つ。 東院鐘楼 夢殿(国宝) 奈良時代の建立の八角円堂。 堂内に聖徳太子の等身像とされる像を安置する。 夢殿は11年()の法隆寺東院創立を記す『法隆寺東院縁起』の記述からその頃の建築と考えられているが、これを遡る天平9年の『東院資財帳』に「瓦葺八角仏殿一基」の存在が記され、その頃に創立された可能性も考えられている。 8世紀末頃には「夢殿」と呼称される。 奈良時代の建物ではあるが、鎌倉時代に軒の出を深くし、屋根勾配を急にするなどの大修理を受けている。 昭和の大修理の際にも屋根を奈良時代の形式に戻すことはしなかったため、現状の屋根形状は鎌倉時代のものである。 基壇は二重で、最大径が11. 3メートル。 堂内は石敷。 堂内の八角仏壇も二重で、その周囲に8本の入側柱が立ち、入側柱と側柱の間には繋虹梁を渡す。 入側柱と側柱は堂の中心に向かってわずかに傾斜して立つが、これは「内転び」と呼ばれる中国渡来の手法である。 立像(救世観音、国宝) 飛鳥時代、木造。 夢殿中央の厨子に安置する。 長年であり、白布に包まれていた像で、明治初期に(天心)とが初めて白布を取り、「発見」した像とされている(岡倉らによる「発見」については伝説化されている部分もあり、それ以前の数百年間、誰も拝んだ者がいなかったのかどうかは明らかでない)。 現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏である。 保存状態が良く、当初のものと思われるが多く残る。 僧都坐像(国宝) 奈良時代の乾漆像。 行信は東院の建立に尽力した人物である。 吊り目の怪異な容貌が特色。 律師坐像(国宝) 平安時代初期の作。 この時代の仏像はほとんどが木彫であるが、本像は珍しい塑造である。 道詮は、荒廃していた東院の復興に尽力した人物である。 聖観音立像(重文) 救世観音の背後に立つ。 絵殿及び舎利殿(重文) 鎌倉時代の建立。 絵殿には、(現在の大阪府北部など)の絵師である秦致貞(はたのちてい、はたのむねさだ)が元年()に描いた『聖徳太子絵伝』の障子絵(国宝)が飾られていた。 太子の生涯を描いた最古の作品であるが、明治11年()、当時の皇室に献上され、現在は「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館の所蔵となっている。 絵殿には江戸時代に描かれた『聖徳太子絵伝』が代わりに飾られている。 伝法堂(国宝) 切妻造、本瓦葺き、桁行七間、梁間四間。 内部は床を張り、天井を張らない化粧屋根裏とする。 橘夫人(伝承では(夫人、母)とされるが、現在では夫人・とする説が有力)の住居を移転して仏堂に改めたものとされ、奈良時代の住宅遺構としても貴重である。 昭和大修理時の調査の結果、この堂は他所から移築され改造された建物で、前身建築は住居であったとみられる。 堂内には多数の仏像を安置するが、通常は公開していない。 内陣は中の間、東の間、西の間に分かれ、それぞれ乾漆造阿弥陀三尊像(奈良時代、重文)が安置される。 他に・立像、四天王立像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像(各木造、平安時代、重文)を安置する。 東院には他に 南門(室町時代の長禄3年(1459年)建立、重文、別名不明門)、 四脚門(鎌倉時代、重文)、 鐘楼(鎌倉時代、国宝)がある。 大宝蔵院 [ ] をはじめとする寺宝を公開している。 百済観音堂および東宝殿、西宝殿からなる建物で(10年)に完成した。 立像()(国宝) 飛鳥時代、木造。 元は金堂内陣の裏側に安置されていた。 細身で九頭身の特異な像容を示す。 の『古寺巡礼』をはじめ、多くの文芸作品の中で絶賛されてきた著名な像であるが、その伝来や造像の経緯などはほとんど不明である。 「百済観音」の通称は近代になってからのもので、明治初期まで寺内では「虚空蔵菩薩像」と呼ばれていた。 詳しい解説は別項「」を参照。 観音菩薩立像(九面観音)(国宝) 唐から将来の像。 を用い、彩色を施さず白木で仕上げた、いわゆる檀像と呼ばれる像である。 細かい装身具、体部から遊離している耳飾や天衣まで完全に一木で彫り上げた技巧的な像である。 観音菩薩立像(夢違観音)(国宝) 飛鳥時代後期(期)、銅造。 元は東院絵殿の本尊。 悪夢を良夢に替えてくれるという伝説からこの名がある。 立像(国宝) 平安時代、木造。 奈良県の(おおみわじんじゃ)のである大御輪寺(だいごりんじ)にあったが、明治ので法隆寺へ移動した。 大宝蔵院ができるまでは金堂内陣の裏側に安置されていた。 六観音像(重文) 飛鳥時代後期(白鳳期)、木造。 六観音像と通称され、重要文化財の指定名称は「観音・勢至菩薩」「日光・月光菩薩」「文殊・普賢菩薩」となっているが、本来の名称は明らかでない。 少しずつ様式の異なる3対の像から成る。 東京のには、この六観音像と酷似した菩薩像があり、元は8体あったものとも言われる。 ・立像、四天王立像(重文) いずれも奈良時代の塑像で、元は食堂(じきどう)本尊の薬師如来像を囲んで安置されていたものである。 (国宝) 飛鳥時代。 元は金堂に安置されていた、仏堂形の厨子である。 建築様式的には法隆寺の西院伽藍よりやや古い時代を示し、飛鳥時代の建築、工芸の遺品として重要である。 透かし彫りの飾金具の下に本物のの羽を敷き詰めて装飾したことからこの名がある。 現在、玉虫の羽は一部に残るのみで、当初の華麗さを想像するのは難しい。 厨子の扉や壁面の装飾画も著名で、釈迦の前世物語である『捨身飼虎図』(しゃしんしこず)、また『施身聞偈図』(せしんもんげず)は特によく知られる。 現在、5年の歳月と1億円以上費用をかけて作成された復刻版が本寺院に寄贈された。 三尊像及び厨子(橘夫人厨子)(国宝) 飛鳥時代後期(白鳳期)。 やはり金堂に安置されていたもの。 厨子内の阿弥陀三尊像は飛鳥時代後期(白鳳期)の金銅仏の代表作で、蓮池から生じた3つの蓮華の上に三尊像が表されている。 金堂小壁画(重文) の金堂の火災の際、取り外されていたため難を免れた、小壁の天人の壁画20面である。 20面のうち一部が展示されている。 また、仏画、仏具、舞楽面、経典なども随時展示替えをしつつ公開されている。 保存上の理由から常時公開されていない寺宝として四騎獅子狩文錦(唐時代、国宝)、黒漆螺鈿卓(平安時代、国宝)などがある。 大宝蔵殿 [ ] 大宝蔵院とは別個の建物。 の建設で、大宝蔵院が完成するまでは、この大宝蔵殿で多くの寺宝が公開されていた。 現在は、春秋の観光シーズンのみ開館し、大宝蔵院に展示しきれない様々な寺宝を公開している。 その他の主な堂宇 [ ] 食堂(左)及び細殿(右) 法隆寺境内には、以上に述べた他に多くの堂宇やと呼ばれる付属寺院がある。 なお、以下の諸堂のうち、西円堂以外の堂内や仏像は原則として非公開である。 南大門(国宝) 西院伽藍の南方、境内入口に建つ。 入母屋造の一重門。 室町時代(1438年)に、当時の西大門を移築し建立。 建築当初はであった。 西園院客殿(重文)、西園院上土門(あげつちもん、重文)、西園院唐門(重文) 西園院は法隆寺の本坊(住職の居所)であり、南大門を入って左側、築地塀の内側にある。 なお、西院・東院の築地塀も重文に指定されている。 大湯屋(重文)、大湯屋表門(重文) 西園院の西方、築地塀の内側にある。 新堂(重文) 西園院に接して建つ持仏堂。 薬師三尊像、四天王像(各重文)を安置。 護摩堂 南大門を入って右側の子院・弥勒院に接して建つ。 不動明王及び二童子像、弘法大師坐像(各重文)を安置。 聖霊院(しょうりょういん)(国宝) 西院伽藍の東側に建つ、聖徳太子を祀る堂。 鎌倉時代の建立。 この建物は本来は東室の一部であったが、にこれを再建する時に南半を改造して聖霊院とし、聖徳太子像を祀った。 現在の聖霊院はに改築されたものである。 聖徳太子及び眷属像(平安時代、国宝)、半跏像(重文)、立像(重文)を安置。 太子の命日の旧暦2月22日を中心に(現在は3月22日~24日)、法隆寺最大の行事であるお会式(おえしき)が行われる。 東室(ひがしむろ)(国宝) 聖霊院の北に接続して建つ。 後世の補修・改造が多いが、基本的には奈良時代の建築で、当時の僧坊建築の遺構として貴重である。 妻室(つまむろ)(平安時代、重文) 東室の東に建つ細長い建物。 三経院及び西室(国宝) 西院伽藍の西側、聖霊院と対称的な位置に建つ。 鎌倉時代の建立。 阿弥陀如来坐像持国天・多聞天立像(各重文)を安置。 西円堂(国宝) 西院伽藍の西北の丘の上に建つ八角円堂。 鎌倉時代の建立。 堂内の空間いっぱいに坐す本尊薬師如来坐像(国宝)は、奈良時代の乾漆像。 本尊台座周囲には小ぶりな立像(重文)、立像(重文)を安置する。 薬師坊庫裏(重文) 西円堂の背後に建つ。 上御堂(重文) 西院伽藍の大講堂の真裏(北)に建つ。 鎌倉時代の建立。 釈迦三尊像(国宝)、四天王立像(重文)を安置。 通常非公開だが、毎年~に限り堂内を公開。 地蔵堂(重文) 西円堂の東側石段下に建つ。 地蔵菩薩半跏像(重文)を安置。 食堂(じきどう)(奈良時代、国宝)および細殿(ほそどの)(鎌倉時代、重文) 西院伽藍の東方北寄りに建つ。 食堂本尊の薬師如来坐像(重文)は奈良時代の塑像だが、補修が多い。 本尊以外の仏像は大宝蔵院に移されている。 綱封蔵(こうふうぞう)(国宝) 聖霊院の東に建つ、奈良時代~平安初期の倉庫である。 東大門(国宝) 西院から東院へ向かう道筋に建つ、奈良時代の八脚門。 旧富貴寺羅漢堂(重文) 西院から東院へ向かう道筋の南側、築地塀の内側にひっそりと建つ。 元は奈良県川西町のにあり、荒れ果てていたのを、(、美術史家)が引き取り保存した後、法隆寺へ寄進。 平安時代のの初層のみが残ったものと思われる。 子院 [ ] 各子院はいずれも非公開。 中院本堂(重文) 境内西端にある。 宝珠院本堂(重文) 境内西端にある。 堂内に文殊菩薩騎獅像(重文)を安置。 律学院本堂(重文) 西院から東院へ向かう道筋の北側にある。 宗源寺四脚門(重文) 西院から東院へ向かう道筋の北側にある。 福園院本堂(重文) 西院から東院へ向かう道筋の南側にある。 北室院本堂、同・太子殿、同・表門(各重文) 東院伽藍の北方にある。 本堂には阿弥陀三尊像(重文)を安置する。 現存する子院としては他に地蔵院、宝光院、弥勒院、実相院、普門院、観音院(以上、西院伽藍の南側)、福生院(東院伽藍の西側)、円成院(大宝蔵院裏手)がある。 文化財 [ ] 法隆寺献納宝物 [ ] 詳細は「」を参照。 以後のにより民衆による破壊にさらされ、さらに幕政時代のような政府による庇護がなくなった全国の仏教寺院は、財政面で困窮の淵にあった。 また多くの寺院は堂塔が老朽化し、重みで落ちそうな屋根全体を鉄棒で支えるような状況に至っていた。 の時代に古い寺社を文化遺産とする価値観はまだなく、法隆寺はじめ多くの寺院が存続困難となり、老朽化した伽藍や堂宇を棄却するか売却するかの選択を迫られた。 法隆寺は、(明治11年)に貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、一万円を下賜された。 この皇室の援助で以来の伽藍や堂宇が維持されることとなった。 皇室に献納された宝物は、一時的にに移された後、(明治15年)に帝室博物館に「法隆寺献納」(皇室所蔵品)として収蔵された。 第二次世界大戦後、所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還された4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。 さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら約320件近くの宝物は法隆寺宝物館に保存されている(有名な『』や『』などは現在も皇室が所有するである)。 指定文化財 [ ] 境内が国のに指定されている。 国宝 [ ] 建造物• 南大門• 五重塔• 回廊 2棟• 大講堂• 聖霊院(しょうりょういん)• 東室(ひがしむろ)• 三経院及西室• 西円堂• 綱封蔵• 食堂(じきどう)• 東大門• 伝法堂• 東院鐘楼 美術工芸品 銅造阿弥陀三尊像(伝橘夫人)• 銅造釈迦如来及両脇侍像 止利作(金堂安置)• 銅造薬師如来坐像(金堂安置)• 木造四天王立像(金堂安置)• 木造毘沙門天・吉祥天立像(金堂安置)• (2020年度指定予定)木造天蓋3箇 (官報告示を経て正式指定となる)• 塑造塔本四面具 78躯・2基(五重塔安置)• 木造薬師如来及両脇侍坐像(大講堂安置)• 乾漆薬師如来坐像(西円堂安置)• 木造釈迦如来及両脇侍坐像(上御堂安置)• 銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)・木造厨子(所在大宝蔵院)• 銅造観音菩薩立像(夢違観音)(所在大宝蔵院)• 木造観音菩薩立像(九面観音)(所在大宝蔵院)• 木造観音菩薩立像(百済観音)(所在大宝蔵院)• 木造地蔵菩薩立像(所在大宝蔵院)。 明治初期までの神宮寺であるに伝来。 木造聖徳太子・山背王・殖栗王・卒末呂王・恵慈法師坐像(聖霊院安置)• 附 銅造観音菩薩立像1躯 木造蓬莱山及亀座付• 附 紙本墨書妙法蓮華経二・維摩経並勝鬘経一 3巻(木製経筒入)• 木造観音菩薩立像(救世観音)(夢殿安置)• 乾漆行信僧都坐像(所在夢殿)• 塑造道詮律師坐像(所在夢殿)• 玉虫厨子• 黒漆卓• 四騎獅子狩文錦• 塑造道詮律師像(夢殿) 重要文化財 [ ] 建造物• 西院大垣 3棟• 西院西南隅子院築地 2棟• 西院東南隅子院築地 2棟• 西園院唐門• 西園院上土門(あげつちもん)• 西園院客殿• 大湯屋• 大湯屋表門• 中院本堂• 宝珠院本堂• 薬師坊庫裏• 地蔵堂• 上御堂(かみのみどう)• 妻室(つまむろ)• 律学院本堂• 福園院本堂• 旧富貴寺羅漢堂• 宗源寺四脚門• 東院四脚門• 東院南門• 東院回廊 2棟• 東院礼堂(らいどう)• 東院絵殿及舎利殿• 東院大垣 3棟• 北室院本堂• 北室院太子殿• 北室院表門 絵画• 金堂外陣旧壁画 20面(飛天図)• 金堂内陣旧壁画 12面 釈迦浄土図(第1号大壁)、菩薩像(第2号小壁)、観音菩薩像(第3号小壁)、勢至菩薩像(第4号小壁)、菩薩像(第5号小壁)、阿弥陀浄土図(第6号大壁)、観音菩薩像(第7号小壁)、文殊菩薩像(第8号小壁)、弥勒浄土図(第9号大壁)、薬師浄土図(第10号大壁)、普賢菩薩像(第11号小壁)、十一面観音像(第12号小壁)• 五重塔初層旧壁画 18面(菩薩像6、山水図12)• 絹本著色五尊像• 絹本著色像• 絹本著色像 八曲屏• 絹本著色星図(1902年重文指定)• 絹本著色星曼荼羅図(2004年重文指定)• 絹本著色法華曼荼羅図• 絹本著色聖皇曼荼羅図 尭尊筆• 絹本著色聖徳太子像• 絹本著色聖徳太子講讃図• 絹本著色毘沙門天像• 絹本著色蓮池図(旧舎利殿須弥壇後壁貼付) 二曲屏風• 紙本著色扇面古写経 彫刻 安置場所ごとに区分して示した。 同一名称でまぎらわしいものに限り、像高、重文指定年度などを注記した。 塑造金剛力士立像 2躯(吽形躰部木造)(中門安置)• 銅造阿弥陀如来及び脇侍像 2躯(作)(金堂安置)• 附:像内納入品(万坏供養摺札325枚、阿弥陀如来及両脇侍摺仏103枚)• 木造伝僧正坐像(経蔵安置)• 木造四天王立像(大講堂安置)• 木造地蔵菩薩立像(聖霊院安置)• 木造如意輪観音坐像(聖霊院安置)• 木造阿弥陀如来坐像(三経院安置)• 木造持国天・増長天立像(三経院安置)• 木造十二神将立像(西円堂安置)• 木造千手観音立像(西円堂安置)• 木造地蔵菩薩半跏像(地蔵堂安置)• 木造四天王立像(上御堂安置)• 塑造薬師如来坐像(食堂安置)• 木造薬師如来両脇士像(新堂安置)• 木造四天王立像(新堂安置)• 木造不動明王及二童子立像(護摩堂安置)• 木造弘法大師坐像(護摩堂安置)• 木造文殊菩薩騎獅像(宝珠院本堂安置)(宝珠院所有)• 木造聖観音立像(夢殿安置)• 木造聖徳太子立像(夢殿安置)• 乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(伝法堂安置)(1909年重文指定、中の間本尊)• 乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(伝法堂安置)(1902年重文指定、西の間本尊)、• 乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(伝法堂安置)(1902・1909年重文指定、東の間本尊)• 木造梵天・帝釈天立像(伝法堂安置)• 木造四天王立像(伝法堂安置)• 木造薬師如来坐像(伝法堂安置)• 木造釈迦如来坐像(伝法堂安置)• 木造弥勒仏坐像(伝法堂安置)• 木造阿弥陀如来坐像(伝法堂安置)• 木造阿弥陀如来及両脇侍像(北室院本堂安置)(北室院所有)• 金銅釈迦如来文殊菩薩像一座(戊子年銘)(大宝蔵院所在)• 塑造吉祥天立像(大宝蔵院所在、旧金堂)• 金銅薬師如来坐像(伝西円堂薬師如来胎内仏)(大宝蔵院所在)• 木心乾漆弥勒菩薩坐像(大宝蔵院所在)• 木造文殊・普賢菩薩立像(伝六観音のうち)(大宝蔵院所在)• 木造日光・月光菩薩立像(伝六観音のうち)(大宝蔵院所在)• 木造観音・勢至菩薩立像(伝六観音のうち)(大宝蔵院所在)• 金銅誕生釈迦仏立像1躯・金銅観音菩薩立像5躯(大宝蔵院所在、他)• 塑造梵天・帝釈天立像(大宝蔵院所在、旧食堂)• 塑造四天王立像(大宝蔵院所在、旧食堂)• 厨子入木造聖徳太子坐像 円快作(大宝蔵院所在)• 木造如意輪観音坐像(大宝蔵院所在)• 厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像・銅板押出如来及両脇侍立像(板扉貼付)・銅板舟形後屏(銅板押出天蓋付)(大宝蔵院・大宝蔵殿所在)• 銅造観音菩薩立像(伝・金堂薬師如来脇侍)2躯(大宝蔵殿所在)• 銅造観音菩薩立像(大宝蔵院所在、旧金堂)• 木造薬師如来坐像(大宝蔵殿所在)• 木造釈迦如来坐像(大宝蔵殿所在)• 木造阿閦如来坐像(大宝蔵殿所在)• 木造阿弥陀如来坐像(大宝蔵殿所在)(像高92cm、1906年重文指定)• 木造阿弥陀如来坐像(大宝蔵殿所在)(像高34cm、1906年重文指定)• 木造聖観音立像(大宝蔵殿所在)(像高165cm、1897年重文指定)• 木造聖観音立像(大宝蔵殿所在)(像高182cm、1909年重文指定)• 木造普賢延命坐像(大宝蔵殿所在)• 木造天鼓音如来坐像(大宝蔵殿所在)• 木造千手観音立像(大宝蔵殿所在)• 木造弥勒菩薩半跏像(大宝蔵殿所在)• 木造弥勒菩薩坐像(大宝蔵殿所在)• 木造善女竜王立像(大宝蔵殿所在)• 木造光背(大宝蔵殿所在)• 磚製阿弥陀如来及脇侍像(大宝蔵殿所在)• 金銅僧徳聡等造像記(年銘)(大宝蔵殿所在)• 木造面 1面(大宝蔵殿所在)• 木造舞楽面 35面(胡徳楽7、地久7、退宿徳2、石川、抜頭、還城楽、二ノ舞2、新鳥蘇5、皇仁庭2、崑崙八仙4、陵王、納曽利2、附:散手、崑崙八仙)(大宝蔵院・大宝蔵殿所在)• 木造行道面(所用)10面(獅子頭2、綱引、蝿払、八部衆6、附:八部衆残欠1片)(大宝蔵殿所在)• 木造菩薩面3面(附:菩薩面5面)(大宝蔵殿所在)• 木造追儺面 3面(大宝蔵殿所在)• 木造阿弥陀如来坐像(東京国立博物館寄託、1909年重文指定)• 金銅釈迦如来立像(1910年盗難)• 孔雀明王像 工芸品• 銅水瓶• 銅壺(香水壺)• 金銅鉢 3口• 金銅装唐組垂飾残闕• 無文磬 銘東院• 金銅雲形磬• 金銅火舎 五年銘• 金銅花瓶 元年銘• 金銅法具類 一具 火舎(かしゃ)4口、花瓶(けびょう)4口、六器 台皿付24口、飲食器(おんじきき)2口、金剛盤 1面(二年銘)、四橛(しけつ) 4本、灑水器(しゃすいき) 1口、塗香器(ずこうき) 1口• 鋳銅六器 盞一口欠 12口• 銅錫杖(輪頂五輪塔)• 銅錫杖(輪頂宝瓶)• 銅鐘(西院鐘楼)• 銅鐘(東院鐘楼)• 木造天蓋(金堂)3箇(2020年度国宝指定予定) (官報告示を経て正式指定となる)• 鼉太鼓 一対• 木造鉦鼓台 3基 附:舞台• 黒漆華形大壇 二年銘(1289年)• 黒漆布薩手洗2口・黒漆布薩花器1口・銅水瓶3口• 黒漆六角厨子• 石燈籠(西院伽藍内所在)• 蜀江錦 3面 書跡典籍・古文書• 巻第一、第七、第九 3巻。 大方広仏 巻第四十二• 附法伝 残巻(出土)• 弥勒上生経疏 上巻• (巻第二、十二欠)10巻• (写経470巻 版経130巻)600巻• 版本成述記(巻第十末写本)20冊• 崇俊塔銘• 恵沼神塔碑 李邕(りよう)撰(「よう」は「巛」の下に「邑」)• 七大寺巡礼私記 残巻• 法隆寺 890巻(附:補写経36巻、保安三年三月廿三日僧林幸勧進状1巻)• 法隆寺縁起白拍子 貞治三年重懐書写奥書• 文書(三年五月廿一日以下11通) 1巻• 法隆寺領絵図 四年卯月日(附:同庄絵図案(三年書写裏書)) 考古資料・歴史資料• 木造百万小塔100基、木造十万節塔(残欠蓮座付)1基、木造一万節塔(蓮座付)1基• 附:木造組立小塔6基、他に残欠屋蓋3箇、台2箇• 附:陀羅尼100巻(自心印陀羅尼39巻、相輪陀羅尼27巻、根本陀羅尼27巻、六度陀羅尼7巻)• 板木 八年施入• 調布 2枚 内一枚、天平勝宝四年十月信太郡貢進墨書• 法隆寺枡 2口• 一升枡 二年銘(1456年)(観音講枡)• 一升枡 二年銘(1574年)• 法隆寺金堂壁画写真ガラス原板 363枚 出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。 その他の文化財 [ ]• 五重塔舎利容器 1926年の調査時に心柱下の地中の心礎から発見されたもので、響銅大鋺、響銅宝珠紐合子(銀鎖付)、卵形透彫銀製容器、卵形透彫金製容器、瑠璃製舎利瓶(銀栓付)が順に入れ子になり、大鋺中には海獣葡萄鏡があった。 これら遺物は調査後、元のとおりに埋納された。 善光寺如来御書箱 善光寺如来(長野県・の阿弥陀如来)から聖徳太子あての御書(おんしょ、手紙)と称する文書を納めた箱で、古来、開封を禁じているが、明治初期の文化財調査である壬申検査(1872年)の際に開封されたことがあり、その際に取られた文書の写しが東京国立博物館に保管されている。 箱の表面には飛鳥時代の蜀江錦が張られ、これを錦袋や綾袋で幾重にも覆っている。 蜀江錦張りの箱は1994年に開催(東京国立博物館など5館を巡回)された「国宝法隆寺展」で公開されたことがある。 西円堂奉納品 西円堂には、本尊の薬師如来の霊験を信じて病気平癒を祈願した人々が古くより様々なものを奉納してきたが、最も多いのが室町時代中期から江戸時代初期までの武器類で、なかんずく刀剣が約6,000点、次いで鏡が3,000点超あり、その他は刀装具、弓、鑓、薙刀、鉄砲、甲冑など、全部で1万点超が確認され 、日本の武器研究における重要な資料が多く含まれていると目されている。 奉納品群はかつては堂建物内外の壁や柱に隙間なく掛けられていたが、1935年(昭和10年)の西円堂修理の際に全て取り外され 、現在は宝物庫にて保管されている。 主な行事 [ ]• - 舎利講 聖徳太子二歳の時、「南無仏」と唱えたところ出現したを本尊として行なわれる法要。 初護摩祈願法要• - 金堂修正会 (2年)以来続く伝統行事。 国家安隠、万民豊楽等を祈る。 - 上宮王院修正会 夢殿の十一面観音への悔過法要。 国家安泰を祈る。 金堂壁画焼損自粛法要• - 西円堂修二会 (元年)以来続く伝統行事。 薬師如来座像に対し「薬師悔過」を行なう。 2月3日 追儺式(鬼追い式) の行事。 西円堂に黒鬼、青鬼、赤鬼が現れ、松明を投げ、が現れて鬼を追う。 三蔵会 を讃える法要。 古くからあったが明治に中断し、(昭和58年)に復活した。 涅槃会 大図を懸け、の遺徳を讃える。 聖徳太子御忌・慧慈忌• 太子道をたずねる集い(ルート)• 推古天皇御忌• - 聖徳太子の命日にその遺徳をたたえる法要。 に近い扱いの聖徳太子坐像がされる。 例年は聖霊院で行なわれるが、10年に一度、大講堂で「大会式」が行なわれる。 独特の供物が捧げられる。 雅楽の流れる中、寺僧たちが訓迦陀(くんかだ)と呼ばれる仏の徳を讃える(しょうみょう)を唱え、太子の徳を讃嘆する。 仏生会 釈尊の誕生を祝う。 食堂に釈迦誕生仏を安置し、をそそぐ。 いわゆる「花祭り」()。 用明天皇御忌• 夢殿本尊開扉法要• 4月中旬 法隆寺文化講演会• 夏開白法要• 5月16日~ 夏安居 西室で90日間、聖徳太子の『』の講義を行う。 弁天会• 東院地蔵会• - 法隆寺夏季大学• 8月15日 夏安居結願法要• 閼伽井坊地蔵会• 覚勝忌• 彼岸会• 西円堂奉納鏡奉納転読法要• - 夢殿本尊秋季特別開扉• 御忌・御忌、藤ノ木古墳参拝• 11月3日 秋季 法隆寺文化講演会• 慈恩会 法相宗の高祖・基(窺基)のための法会。 一時途絶えていたが、(昭和53年)復興。 太子道をたずねる集い(ルート)• お身拭い• 御忌 ギャラリー [ ]• 東院四脚門 交通アクセス [ ]• 徒歩で20分。 JR・下車。 近鉄橿原線下車。 春日大社や奈良駅等から へ 乗り換えずに行くことができる。 ただし、本数が少なく、最終バスの時間が早いので注意。 拝観 [ ]• 西院伽藍(金堂、五重塔、大講堂)、大宝蔵院(百済観音堂を含む)、東院伽藍(夢殿)の3か所は有料で拝観可。 拝観券は、西院伽藍・大宝蔵院・東院伽藍の3箇所共通券が大人1500円。 西院伽藍入口でのみ発券。 東院伽藍だけで300円。 東院伽藍の半券を西院伽藍入口で提示した場合のみ、西院伽藍と大宝蔵院の2箇所共通券1200円で発券。 2箇所共通券の単独発売はしない。 西円堂・聖霊院等は無料で拝観可。 その他の諸堂および子院は原則として非公開。 ただし、下記の諸堂は期日を限って公開。 上御堂 11月1日 - 3日開扉。 西院伽藍の拝観券が必要。 地蔵堂 8月24日昼の地蔵会で開扉。 護摩堂 毎月28日の月例で開扉。 聖霊院 外陣にはいつも無料で上がれるが、本尊聖徳太子像などの諸仏は秘仏で、開扉は3月22日 - 24日のお会式と3月21日夕刻の逮夜法要のみ。 ただし、内陣で本尊を拝観できるのは逮夜法要時のみ。 舎利殿・絵殿 1月1日 - 3日舎利講で開扉。 東院伽藍の拝観券が必要。 伝法堂 7月24日夕刻の東院地蔵会で開扉。 東院伽藍の拝観券が必要。 律学院 3月22・23日のお会式と8月14・15日に開扉。 脚注 [ ] []• 『国史大辞典』第12巻、p. 662(「法隆寺」の項)• (高田、1987)p. (梶谷、2008)p. (高田、1987)pp. 26 - 28• (高田、1987)p. (鈴木、1994)pp. 256 - 257• (鈴木、2008)pp. 37 - 40• (高田、1987)p. 『国宝法隆寺展』図録、p,228• (曾根、2007)pp. 10 - 18• (高田、1987)pp. 26 - 28• (石田、1959)、pp. 106 - 107• (石田、1959)、pp. 107 - 109• (大橋、1998)、pp. 16 - 17• (大橋、1998)、pp. 18 - 19• (石田、1959)、pp. 111 - 112• (大橋、1998)、pp. 23 - 28• (鈴木、2008)、p. (大橋、1998)、pp. 28 - 30• (鈴木、1994)、pp. 256 - 257• (鈴木、2008)、pp38 - 39• 他, 「法隆寺」の項, 『国史大辞典』, 吉川弘文館, 1979-1997. ニュースサイト(2004年12月10日)2019年6月18日閲覧。 鈴木嘉吉「世界最古の木造建築 法隆寺金堂 最新の研究から」『国宝法隆寺金堂展図録』(2008年)、p. 武澤秀一『法隆寺の謎を解く』(、)• 鈴木嘉吉「世界最古の木造建築 法隆寺金堂 最新の研究から」『国宝法隆寺金堂展図録』(2008年)、p. 尺の「材」 [ ]• (森下、1998)、p. 106• (町田、1989)、p. 309• (直木、1994)、pp. 256 - 257• (森下、1998)、p. 106• (直木、1994)、pp. 72 - 79• (森下、1998)、p. 106• (町田、1989)、pp. 309 - 310• 武澤、。 1947年(昭和22年)6月3日• [ ]• ニュースサイト(2013年12月11日)2019年6月18日閲覧。 朝日新聞デジタル(2015年11月12日)2019年6月18日閲覧。 高田良信『法隆寺千四百年』(とんぼの本)、新潮社、1994• 『国宝法隆寺金堂展図録』(2008年)、pp. 179 - 180• (47News(2019年1月28日)2019年6月18日閲覧。 『週刊朝日百科 日本の国宝』2号(朝日新聞社、1997); 町田甲一『大和古寺巡歴』(講談社学術文庫、1989)、p. 299• 文化庁. 2020年3月19日閲覧。 に「金銅弥陀三尊像 康勝作 3躯」として旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定された。 ただし、これら3躯のうち中尊像と左脇侍像(観音菩薩)のみが鎌倉時代の仏師康勝の作で、右脇侍像は時代も作風も異なる奈良時代作の観音菩薩像であった。 に前述の「金銅弥陀三尊像」は2件の重要文化財に分割され、旧・右脇侍像は「銅造観音菩薩立像」として別個に重要文化財に指定された(平成21年7月10日文部科学省告示第102号)。 本来の右脇侍像(勢至菩薩)は明治時代初期に盗難に遭って日本国外に流出し、パリのギメ美術館の所蔵となっている。 なお、現在、金堂にある右脇侍像はギメ美術館像の模造である。 像内納入品は平成21年7月10日文部科学省告示第102号により追加指定。 平成25年6月19日文部科学省告示第117号で員数訂正。 12躯のうち、戌神像、亥神像の2躯は他の10躯とは別個に重要文化財に指定されている。 正式の指定名称は次の通り。 「木造十二神将立像 十二躯の内亥神戌神ヲ除ク(西円堂安置)十躯」(指定)、「木造十二神将立像 戌神、亥神(西円堂安置)二躯」(指定)。 中尊像と両脇侍像は別個に重要文化財に指定されている。 正式の指定名称は次の通り。 「乾漆観音勢至菩薩立像」(1902年指定)、「乾漆阿弥陀如来坐像」(1909年指定)。 1902年に6躯一括で重文(旧国宝)に指定されたものだが、誕生釈迦仏と観音像2躯は1903年盗難に遭い、寺に残るのは観音像3躯のみである。 旧金堂所在、奈良時代作。 1899年に「金銅弥陀三尊像 康勝作 3躯」として重要文化財(旧国宝)に指定されたうちの1躯。 この「金銅弥陀三尊像」はに2件の重要文化財に分割され、旧・右脇侍像は「銅造観音菩薩立像」として別個に重要文化財に指定された(平成21年7月10日文部科学省告示第102号)。 「鼉」(だ)は、「口」を横に2つ並べ、その下に「田」「一」「黽」。 1935年に巻七と巻九が重要文化財(旧国宝)に指定。 当時の所有者は(参照:『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、p. 212)。 巻一は1986年に追加指定(昭和61年6月6日告示第89号)• 1958年に661巻が重要文化財に指定。 1986年に昭和資財帳調査で確認された265巻を追加指定(うち36巻は附指定)。 附の勧進状は1970年追加指定。 (昭和61年6月6日文部省告示第89号、昭和45年5月25日文部省告示第218号)• 称徳天皇の発願によって制作された「百万塔」は、昭和資財帳調査の結果、法隆寺内に塔身部4万5千余基、相輪部2万6千余基が存在することが判明した。 このうち重文指定を受けているのはに指定された102基のみである(参照:『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、pp. 224, 270)。 平成27年9月4日告示第142号• 『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、pp. 266 - 267)。 『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、p. 160)。 『日本経済新聞』朝刊2016年10月30日【美の美】聖徳太子のまなざし 中。 (Lineトラベルjp)• 参考文献 [ ]• 、監修、伊藤桂一、間中定泉著『古寺巡礼奈良1 法隆寺』、淡交社、1979、のち新版• 『法隆寺I(歴史と古文献)』(日本の古寺美術1)、保育社、1987• 藤井恵介『法隆寺II(建築)』(日本の古寺美術2)、保育社、1987• 大西修也『法隆寺III(美術)』(日本の古寺美術3)、保育社、1987• 高田良信『法隆寺の謎を解く』、小学館創造選書、1990• 高田良信ほか『法隆寺千四百年』新潮社(とんぼの本)、1994• 高田良信 『世界文化遺産法隆寺』歴史文化ライブラリー、吉川弘文館 1996• 高田良信 『法隆寺辞典 法隆寺年表』柳原出版、 2007• 曾根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』(歴史文化ライブラリー228)、吉川弘文館、2007• 東京国立博物館、奈良国立博物館、奈良国立文化財研究所ほか編『国宝法隆寺展』(特別展図録)NHK発行、1994• 鈴木嘉吉「法隆寺の歴史」• 奈良国立博物館『国宝法隆寺金堂展』(展覧会図録)、2008• 鈴木嘉吉「世界最古の木造建築 法隆寺金堂 - 最近の研究から - 」• 梶谷亮治「法隆寺金堂壁画の時代」• 『週刊朝日百科 日本の国宝』1, 2, 3号「法隆寺」、朝日新聞社、1997• 『大和古寺風物誌』 新潮文庫• 、 『法隆寺論争』 新泉社• ・小原二郎 『法隆寺を支えた木』 NHKブックス・日本放送出版協会• 武沢秀一 『法隆寺の謎を解く』 ちくま新書、2006• 上原和 『法隆寺を歩く』 岩波新書、2009• 倉西裕子『聖徳太子と法隆寺の謎 交差する飛鳥時代と奈良時代』、平凡社、2005• 倉西裕子『国宝・百済観音は誰なのか? 実在したモデルとその素顔』、小学館、2006• 倉西裕子『救世観音像 封印の謎』、白水社、2007• 大橋一章編著『法隆寺美術 論争の視点』、グラフ社、1998• 大橋一章「法隆寺美術理解のために」• 森下和貴子「救世観音像」• 石田茂作『法隆寺雑記帖』、学生社、1959• 町田甲一『大和古寺巡歴』(講談社学術文庫)、1989• 直木孝次郎『新編 わたしの法隆寺』、1994、塙書房• 『日本歴史地名大系 奈良県の地名』、平凡社• 『角川日本地名大辞典 奈良県』、角川書店• 『』、 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 法隆寺に関連する および があります。 オープンストリートマップに があります。 には、 に関する旅行情報があります。 - 以下の諸寺と並び聖徳太子ゆかりの寺。 (第103世住職)• (第5代管長)• (らくしょ)• 外部リンク [ ]•

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