細川忠興 家系図。 細川隆一郎

明智光秀の娘 細川ガラシャの子孫が有名人だらけで凄すぎる!

細川忠興 家系図

タップでお好きな項目へ:目次• 細川官僚家と守護家 細川家は、頼春という家祖からその子頼之が繋いでいった官僚の 細川京兆家と、 頼之の弟頼有(よりあり)が繋いだ 和泉守護の細川家に分かれています。 細川勝元は官僚家である細川京兆家の流れを継ぐ人でした。 一方、細川忠興は守護家を継ぐ人だったのです。 どちらも室町幕府から仕えた名門の家柄でした。 細川勝元の息子政元の時代に、守護家の細川元有が敵対します。 そして争ったのですが、元有は敗れ、結局政元の家臣になります。 細川忠興はそれから三代後の領主として誕生しています。 つまり、細川勝元と忠興の時代は 100年以上もズレがあり、 2人の直接的な関わりはなかったのです。 それでも細川京兆家に屈した守護家の子孫だということにはなります。 細川忠興とは 戦国の世を生きる 細川忠興は1563年に細川藤孝(幽斎)の長男として生まれます。 彼の妻は明智光秀の娘、細川ガラシャです。 忠興は織田信長の嫡男信忠に仕えていましたが、本能寺の変が起き、義父の明智光秀が謀反を起こします。 この時光秀から味方になるよう頼まれますが、忠興はこれを断り剃髪して信長への忠誠が嘘ではなかったことを訴えました。 秀吉はそれを認め、忠興に対して仕置をするようなことはなかったと言います。 その後は、秀吉に仕え、秀吉の死後は家康に忠臣を尽くします。 しかし関ヶ原の戦いで石田三成の人質にされそうになった妻のガラシャはそれを拒み自ら命を絶ったのです。 最愛の妻の死でした。 家督を忠利へ 1620年、病気のため家督を三男の忠利に譲り出家します。 忠興の父は、細川幽斎といい教養に長けた人でした。 それに習い忠興自身も、和歌や能楽などを好む父と同じ教養人となったのです。 このような文化的な一面がある反面、忠興には残忍な面もありました。 妹の嫁ぎ先の一色義定を暗殺して、一族を皆殺しにしたのです。 その騒ぎの中から救い出された妹は、兄の忠興を恨み、兄に斬りかかったといいます。 その時の傷が鼻に真一文字に残っていたそうです。 きょうのまとめ 細川勝元と忠興は、遠い親戚だったんですね。 2人の生まれた年も勝元が1430年、忠興は1563年と130年以上もの差があるのです。 直接な関わりはなかったにしろ、 2人とも家祖である細川頼春の血を受け継いでいることには変わりありません。 勝元は室町幕府を、忠興は戦国時代を駆け抜けた武将だったのです。 細川勝元の年表を含む【完全版まとめ】はこちらをどうぞ。 関連記事 >>>>.

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細川家

細川忠興 家系図

細川護熙の先祖は、細川幽斎 それでは 細川護熙元総理の 先祖について まずは確認です。 細川護熙元総理の 先祖は、 武家の名門である 細川氏です。 細川護熙元総理の 先祖といえば、 やはり 戦国時代に活躍した、 細川幽斎 細川藤孝 が有名です。 細川幽斎といえば、 武将としてよりも、 文化人としての側面の方が 注目されることも多いです。 細川幽斎をはじめ、 細川護熙元総理の 先祖には 風流な方が多いようですね。 細川護熙の祖父と家族と家系図 では 細川護熙元総理の 家系図について 細川護熙元総理の 祖父の代から、 見ていきましょう。 細川護熙元総理の 先祖は 幕末まで 熊本藩主でしたが、 明治維新後の 廃藩置県により、 華族に叙せられ、 侯爵になっています。 細川護熙元総理の 叔母の夫、 中島昭吉氏は、 中島飛行機創業者の 中島知久平の甥にあたるということで、 華族のみならず、 財閥との家系図のつながりも あります。 細川護熙の父親や母親、兄弟姉妹は? ついで 細川護熙元総理の 父親、細川護貞さんを 中心とする 家系図を見ていきます。 細川護貞氏 明治45、細川護立氏長男 京大法学部卒 内閣総理大臣秘書 永青文庫理事長、神社本庁統理 妻・温子さん 大正7、公爵近衛文麿元首相二女 妻・薫子さん 大正13、 旧熊本藩家老家 松井朋之氏長女 長男・護煕氏 昭和13 上智大学法学部 元総理大臣 二男・護煇氏 昭和14 近衛文麿元首相長男、文隆の養子となる 長女・明子さん 昭和21 表千家家元・千宗左氏と結婚 細川護熙元総理の 父親は、 細川護貞さん。 近衛文麿元首相の娘である、 温子さんと結婚しています。 つまり 細川護熙元総理の 母方の祖父は 近衛文麿元首相ということに なります。 細川護熙元総理の 父親は、 近衛文麿元首相の秘書を つとめており、 『細川護貞日記』を記しています。 細川護熙の家系図は、皇室とも親戚に… それから 細川護熙元総理の 親戚関係を見ていくと、 華麗な家系図が さらに広がっていきます。 細川護熙元総理の弟は、 母方祖父・近衛文麿元首相の息子、 近衛文隆氏とその妻・近衛正子さんの、 養子になっています。 細川護熙元総理の弟は、 近衛家に養子となり、 近衛忠煇さんと名前を改め、 近衛家の当主になりました。 近衛忠煇さんの妻は、 昭和天皇の弟である、 三笠宮崇仁親王の長女にあたる、 甯子 やすこ 内親王でしたので、 細川護熙元総理は 弟の系統から、 三笠宮家と近い親戚関係に あるわけですね。 そして、 細川護熙元総理の妹は、 表千家家元の 千宗左さんと結婚しています。 細川護熙の妻は?子供は何人?名前は? それでは 細川護熙元総理の 妻や子供たちについて 見ていきます。 細川護煕元首相 昭和13、細川護貞氏長男 上智大法学部卒 参議院議員、熊本県知事、衆議院議員、第79代内閣総理大臣 妻・佳代子さん 昭和17、上田正平氏三女 上智大卒 長男・護光さん 昭和47 陶芸家 同妻・亜衣さん 昭和47 旧姓:米沢氏 料理研究家 長女・智子さん 昭和49 二女・裕子さん 昭和50 細川護熙元総理の 妻の名前は佳代子さん。 細川護熙元総理の妻の 父親は、 元郵政官僚の上田正平さんです。 上田正平さんは、 1907年生まれ。 京都大学法学部から 逓信省 ていしんしょう に入り、 満州にわたり 郵政の仕事にあたっていました。 戦後は東洋羽毛工業社長を務めています。 細川護熙の長男・細川護光氏も陶芸家 それで 細川護熙元総理の 子供たちですが、 細川護熙元総理の子供は 3人で、 息子が1人、娘が2人です。 細川護熙元総理の 長男の名前は、 細川護光さん。 職業は陶芸家であり、 やはり 細川家の 風流人の系統をひいているのですね。 細川護熙元総理の息子、 細川護光さんは 料理研究家の 細川亜衣さんと 2009年に結婚しています。 細川護光さんは 現在は 熊本県南阿蘇村で、 活動しているそうです。 というわけで、 細川護熙 ほそかわもりひろ 元総理の 「妻や子供、家族構成は?父親・母親、兄弟は?祖父は近衛文麿で家系図は?長男は陶芸家?」 といったことをお送りしました。

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細川氏家系図(室町幕府管領家・清和源氏足利流)

細川忠興 家系図

武家家伝_細川氏 細川氏 松笠菱(細川対い松) 二つ引両・五三の桐・九曜 清和源氏足利氏流 桐紋は、南北朝時代に頼有が義満から与えられ、二引両紋は戦国時代、幽斎が義昭から賜った。 九曜紋は、幽斎の子忠興の時から使用したという。 足利氏の一支族で、清和源氏である。 足利義康の四代目にあたる義季が、三河国額田郡細川に住んだことから、その地名をとって細川氏を名乗るようになった。 義季の孫に公頼・頼貞の兄弟がいた。 この兄弟の諸子が、南北朝の動乱期にめざましい活躍をした。 とくに公頼の子頼春は刑部大輔・侍所頭人となってのちの管領家の基を開くが、和氏・師氏の兄弟も阿波守・淡路守となって、それぞれ阿波・淡路の守護となった。 建武の新政にあたって、尊氏の与党として八面六臂の活躍をしたのは、むしろ頼貞の三子顕氏・定禅・皇海であった。 要するに公頼系の三兄弟と頼貞系の三兄弟とが、四国を中心に八ケ国に及ぶ細川一族の守護国形成へ道を開いたのである。 勢力の拡大 建武新政当時、細川一族の惣領は嫡系公頼の嫡子和氏であったが、頼貞の嫡子顕氏も弟の定禅・皇海たちを統率して軍事面で活躍した。 和氏は阿波守となって阿波を支配したが、顕氏は讃岐を拠点として河内・和泉・土佐に勢力を伸ばし、当時は顕氏の一族の方が華々しい巧名をあげていた。 しかし、和氏は一族の代表として上洛し、幕府の政権確立に貢献したことから、引付頭人となり、侍所頭人となって立身した。 また、和氏の嫡子清氏は勇猛な武将として名高く、いわゆる観応の擾乱に際して、叔父頼春とともに軍功をあげ、伊賀の守護に任ぜられた。 文和二年(1353)六月に足利義詮が直冬に追われて近江・美濃に逃れたときには義詮軍の殿をつとめ、鎧の上から後光厳天皇を背負って山越えをしたという有名な話がある。 さらに、文和四年正月から始まる尊氏の京都奪回戦に奮戦して負傷するなど幾多の軍功が認められて若狭の守護となり、評定集・引付頭人となった。 その後、尊氏に忌避されて阿波へ退いたこともあったが、尊氏の死後帰京し幕府の執事となった。 だが、清氏はやがて権力に驕って諸将の反感を招き、康安元年(1361)謀叛の嫌疑を受けて吉野へ逃れた。 同年十二月、楠木正儀ら南朝軍とともに京都へ突入したが、幕府軍に敗れて讃岐に退却した。 そして追討の細川頼之の軍勢と白峰西麓で戦い、敗死したのは翌貞治元年七月であった。 以後、細川一族の権力葉、頼春の嫡子頼之に移ることになる。 和氏の末弟である師氏は、建武三年の末頃、淡路の守護に任ぜられて、子孫が代々これを継承した。 和氏の次弟の頼春は早くから和氏とともに上洛して政治面で活動している。 頼春は、つとに武芸に長じていて、建武三年春、宮中の射礼に能射の名をあげ、後醍醐天皇がこれおを賞して御衣を賜ると、即座に和歌を詠んで献上したというから、歌道にも秀でていたことがわかる。 建武二年に中先代の乱が起こると尊氏に従軍し、翌三年には四国の軍勢を糾合して尊氏の東上作戦に合流した。 とくに武功をあげたのは、暦応元年(1338)五月に従兄弟の顕氏とともに和泉の石津で北畠顕家と戦いこれを討ったことである。 その後、阿波・備後の守護となり、康永元年(1342)には伊予に侵入して南朝方守護の大舘氏明を討ち取っている。 頼春は観応元年(1350)に始まる擾乱には尊氏党の有力武将として活躍し、義詮を助けて京都を守った。 その功により従四位下・讃岐守に叙任され、侍所頭人・引付頭人をつとめた。 しかし、観応三年、京都へ侵入してきた南朝軍と戦って、七条大宮で戦死した。 享年四十九歳。 室町時代には、頼春の子頼之の子孫が、斯波氏・畠山氏と並んで三管領の一として幕政に重きをなした。 乱世を生き抜く 近世大名となった細川氏は、頼之の弟頼有を祖とする上守護家元常の後を継いだ藤孝に始まる。 藤孝は元常の弟三淵晴員の子とされるが、将軍足利義晴の四男という説もある。 藤孝ははじめ義晴に仕え、さらに義昭に仕えて越前浅倉氏を頼って一条谷に流寓したりしている。 明智光秀を通じて織田信長に依頼し、義昭を将軍職につかせることに成功した。 しかし、その後義昭を離れて信長に属し、丹後を与えられ田辺城主となった。 その子が忠興で、父藤孝とともに信長に重んじられ、丹後宮津の城主となった。 夫人は明智光秀の娘細川ガラシアだったが、本能寺の変後、光秀からの誘いを退け、秀吉に従って家名を保った。 関ヶ原の合戦には家康に従って戦功を立て、戦後、豊前小倉城主になった。 細川氏はその後加藤氏の改易後を受けて熊本城主となっている。

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